ヤイロの娘とイエスの服に触れる女(1)(マルコ5章)
この副題の聖書個所は、マルコの福音書第5章21から43節です。
共観福音書の並行個所は、マタイの福音書第9章18から26節/ルカの福音書第8章40から56節です。
マルコの福音書に沿って読んでいきたいと思います。
投稿文は二回に分けて、この投稿文(1)では34節までを読みます。
マルコの福音書第5章
●21節.「イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。」
イエスが再びガリラヤ湖の西側に戻ってきました。
そこには、すでに大勢の群衆が集まっていました。
●22節.会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、
ユダヤ教会堂の管理者ヤイロがイエスに懇願しています。
会堂管理者は、単に会堂という建物を管理していたのではなく、律法学者のように、トーラを管理していた者でもあるということです。
したがって、会堂管理者たちもイエスに敵対していたと思いますが、ヤイロという会堂管理者の娘が病にかかり、今にも死のうとしているのです。
ヤイロは今までに娘の病を治そうと手を尽くしてきたがどうにもならなかった。自分の娘の病を治すことのできるのは、イエスだけであることを知っていたし、藁にもすがりたい気持であったと思います。
そこで、イエスのところに来て、いっしょうけんめい懇願しました。
ヤイロにとっては、イエスを敵視するユダヤ教の会堂管理者という立場と、イエスを信じる信仰に挟まれてさぞここに来るまでに苦しんだでしょう。
でも、神はヤイロの背中を押されました。
いまは自分の立場よりも娘のことを優先してイエスに懇願しているのです。
このように、神は、非常にきびしい状況を通して、人をご自分に近づけようとされると受け取れます。
●23節.しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」
ユダヤ教会堂は、ユダヤ教社会に生きる人々の生活の中心でした。
そこは、信仰生活のための施設であるだけでなく、裁判所であり、学校であり、役所でもあったと言うことです。
そのユダヤ教の会堂の運営を司る「会堂長」という地位は、おそらく、地域社会で尊敬される名誉ある地位であったのでしょう。
ヤイロもそのような「会堂長」の一人として、人々から尊敬される信仰生活を送っていたのでしょう。
そのような彼が、自分の幼い娘がいまにも死にそうな状況においてイエスの足元にひれ伏したのです。
平穏なときは、イエスのほうに目を向けない人が、いや、敵視している人がどうしょうもなくなると、後先も考えずに、自分の信仰を忘れてイエスのところにやってくるのです。
このような行為によって、ヤイロはユダヤ教社会から(特に会堂長という身分ですから)異端視されて放り出されるかもしれません。まさに、捨て身の願い事です。捨身の願い事に神が応えられないことはないと思います。
わたしはこの当時ユダヤ教神権社会の中で、密かにイエスを信じているユダヤ教の人々は沢山いたと思うのです。
聖書にあるイエスの奇跡は作り話だという方がおられますが、ヤイロの物語を読んでいるとそのようにはとても思えません。
イエスに敵対するユダヤ人がイエスに助けを求めているのですからね。
●24節.「イエスはヤイロと一緒に出かけていかれた。大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た。」
イエスは会堂長であるヤイロとともに娘のところに出かけました。
多くの群衆もイエスについて来ました。なぜ、イエスは群衆が付いてくるのを許されたのでしょうか。
ヤイロの娘は一刻を争う状況ですから、ヤイロもその家族もできるだけ早くイエスが来てくれることを望んでいたでしょう。
それなのにイエスは急ぐこともなく群衆について来るのを許されました。
群衆が一緒ならば足取りは遅くなります。
つまり、ヤイロの願いはイエスに聞き入れられましたが、ヤイロの期待するようにはイエスは動かなかったということです。
イエスの行動には、きっと意味があるのです。
イエスの真意がわからないヤイロと家族はさぞいらいらしたでしょう。
わたしたちにも、ヤイロと同じようなことを体験します。
願って祈っていても、神は働いて下さっているようには見えない、本当に聞き届けてくださるのだろうか。何事にも、神様のご計画があり神様の時があるのですね。
●25節.「さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。」
この長血とは、婦人の不正出血のことでしょう。
女性の方には、この不正出血の辛さはよくわかるでしょう。
当時はその辛さもありますが、それ以上にそのような人は汚れているということで、イスラエルの共同体の中に入れなかったということです(レビ記15章25節から30節)。
共同体に入れないということは、イスラエルは神権国家ですから社会的に死を意味します。
●26節.「多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。」
悲惨ですね。いろいろと医者を変えても治らなかったということは、お金ばかり取られてきちんとした治療をしてくれなかった、というか、当時は医学といっても科学的に研究されたものではなく、占い師とか呪い師の類が多かったのではないでしょうか。
人の弱みに付け込んで、ぼったくりとかインチキが横行していたと思います。
●27節.「イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。」
●28節.「「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。」
27節の状況を見ると、女は、必死の思いで見つかればひどい目にあう危険を冒して、出血のため弱っていたからだをひきずり、群衆の中に紛れ込んでイエスに近づいたのでしょう。
長血の女はイエスの着物にさわれば自分は治ると信じていました。
彼女の信仰は、着物にさわることに置かれていました。
先ほどのヤイロは、娘にイエスが手を置いて下されば、娘は治ると信じていました。信仰の持ち方は違いますが、同じイエスに対する強い信仰です。
●29節.「すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。」
すごいです。女はすぐにいやされました。
現在でも癒しの奇跡はありますが、癒しを祈って叶えられた人の体験談を聞くと、体に熱いものを感じて自分の体の力が病人に入るのが分かったと言っておられました。
●30節.「イエスは、自分の内から力が出ていったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。」
大勢の群衆がイエスを取り囲み押し合いへし合いしていますから、大勢の人がイエスの服に触れていると思います。
ところが、イエスは服に触った大勢の人の中で、特定の一人にだけ自分の体から力がその人に抜けていくのを感じたのです。
見方を変えれば、多くの人はイエスを物理的に触っていただけで、本当の意味、つまり、信仰をもって触ってはいなかったということでしょう。
わたしたちも祈ったり礼拝したりしますが、おざなりになっていないか問われそうです。
本当の意味でキリストに触れるという信仰を持つことによって、はじめてイエスの力を体験することができるのです。
●31節.「そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」
●32節.「しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。」
●33節.「女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。」
長血の女は、病気が癒されたことを知って怖くなったのです。本当に癒されるとは思っていなかったのかもしれません。ただひたすらイエスにすがったのでしょう。
怖くなった気持ちはわかります。望んでいたことですが、自分の身に未知の力が働き、奇跡のみ業が実現したのですからね。嬉しさよりも先に恐ろしさが立ったのでしょう。
●34節.「イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」」
この状況を見ていたヤイロは、どのような心境だったのでしょうか。
自分は娘のいやしを願い、一刻も急いでほしいのに他の女をいやされている。
ましてやヤイロは会堂長のですからプライドもあったでしょう。
こんなことがあって良いものだろうか、と思ったに違いありません。
わたしたちにもこのようなことはあると思うのです。
祈ったのに聞かれない。他の人は早々と聞かれているのに、自分だけは聞かれない。
そうしたとき、わたしたちの信仰は揺らぎます。信仰を試されておられるのでしょう。
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