ヤイロの娘とイエスの服に触れる女(2)(マルコ5章)
この副題の聖書個所は、マルコの福音書第5章21から43節です。
共観福音書の並行個所は、マタイの福音書第9章18から26節/ルカの福音書第8章40から56節です。
マルコの福音書に沿って読んでいきたいと思います。この投稿文(2)では35節から読みます。
マルコの福音書5章
●35節.「イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」」
ヤイロの娘が死亡したことの知らせが来ました。
イエスがすぐに娘のところに行かなかったから、その間に娘は死んでしまったのです。
人間的に考えたら、最悪の状況です。
でも、イエスにはご計画があってそのようにされたのでしょう。イエスは娘の病状はよくご存じのはずです。
●36節.「イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。」
イエスは娘の死亡報告を聞き言われました。ヤイロはほっとした半面疑心暗鬼であったと思います。いくらイエスでも、死んでしまえば手遅れだと誰でも思います。
現在でも新興宗教で癒しのみ業を売り物にしている教祖がおられますが、死人を生き返らせた方はおられません。
それでもイエスは言われる。「恐れることはない、信じなさい」。
信仰とは、理屈とか条件はいらない、ただ神の言葉を信じることが大切なのです。
ただし、この物語をよく読むと、会堂長のヤイロの信仰は、イエスの言葉の意味を理解して信じたのではなく、ただ娘の病を癒してほしい一心で、癒してくださることを信じたのだと思います。
このイエスの言葉は、疑心暗鬼になりかけているヤイロをさぞ安心させたでしょう。
●37節「そして、ペトロ、ヤコプ、またヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれもついて来る事をお許しにならなかった。」
いよいよ会堂長の家に行かれるのですが、ここではイエスは一部の弟子のみに同行を許されて、群衆が来るのを、お許しになりませんでした。
同行した三人の弟子は、イエスの十二人の弟子の中でも中心的な存在です。
イエスが栄光の御姿に変えられるときとか、ゲッセマネの園でイエスが祈られたときにイエスの側にいた三人でもあります。
イエスは、十二人の弟子たちにご自分のことを明かされたが、重要な出来事においてはさらにその中からこの三人を選ばれたのです。
●38節.「一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、」
会堂長の家ではおそらく葬儀の準備が行われていたのでしょう。
大声で泣く者、わめいたりする者がいたとありますが、これは、当時はプロの泣き屋もあったということですから、そういう人たちではと思います。
プロの泣き屋を雇うのは、その子がどれだけ愛されていたかを近所の人々に知らせるためであったのでしょう。
●39節.「家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」」
イエスが「眠っている」と言われたのは、肉体は死んでいるが霊は生きている。だから今は死んだように見えるが、生き返ることを意味されているからでしょう。
人間の目には死んだように見えても、それは本当の意味で死んだのではないのです。霊的には生きているのです。
キリストにあって死んだ者たちも、聖書では、「眠った者」と表現されています。
●40節.「人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。」
人間とはあさはかなもので、その場その場の状況に大きく影響されます。
先ほどまで、泣いてわめいていた人たちが、今はもうあざ笑っているのです。
イエスは、あざわらった者たちは外に出されました。
イエスのみ業を見ることのできる人たちは、イエスを信じる者たちだけになりました。不信仰は、神のみわざに参加できないのです。
●41節.「そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。」
ヤイロが願ったように、イエスは彼女の手を取られました。この「タリタ、クム」という語句は、イエスが語られた言葉を翻訳せずにそのまま聖書に残しているのです。
福音書記者も写本を作った人もその後の教会関係者も言葉の意味を書いて、イエスの言葉をそのまま残したのです。
それはこの言葉が重要な意味をもっていること、この記事が信頼に値することを示していると思います。
●42節.「少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。」
少女は病がいやされるどころか生きかえりました。
このようなことがあるのです。
肉体は完全に滅びていましたから、この生き返りは復活ともいえるでしょう。
41節の「タリタ、クム」というイエスが実際に語られた言葉をそのまま残されたのは、このようなすばらしい神のみ業を知らせるのに、言葉を翻訳して言い換えることを、聖書著者、写本を作った人、教会関係者もしなかったのです。それは、この奇跡が事実であることを示していると思うのです。
いろいろな工作は必要ないのです。
イエスは(人間の目には)死んだ(眠っている)人間を生きかえらすという驚くべきみ業をなすために、長血の女を癒し、ゆっくりと会堂長の家に来たのです。
12歳のヤイロの娘の生きかえりも、12年間患っていた長血の女の癒しも、それらはみな神の摂理の中にあります。
ということは、神は12年の歳月をかけて、ヤイロの家に信仰が与え、この長血の女に信仰が与えるためにご計画されていたということです。
神のなさることは、時にかなって美しく、ご自分の計画のためにすべてのことを益として働かせてくださるのです。
●43節.「イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ、また、食べ物を少女に与えるようにと言われた。」
おそらく、イエスのなされたこのような奇跡を理解することのできる人々は、その場に居合わせた人たちだけでしょう。
「だれにも知らせないように」というのは、イエスの時(逮捕と十字架)はまだ来ていないからです。
「ユダヤ教の指導者層はこのことを知ると怒りに狂い何をするかわかりません。
少女は病のために何も食べていなかったので、イエスは食事をさせるように命じられています。
イエスは細かいところまで気がつかれるのですね。大変リアルで、事実をそのまま記したのでしょう。
生きかえったとはいえ、少女の体は肉と骨の地上の体であり、いつかは朽ちるものです。
ですから、新しい命を授かる来世での復活とは異なります。
復活の体は霊の体で決して朽ちることはありません。
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