弟子の覚悟(マタイ8章)
今回は、マタイの福音書第8章18~22節/ルカの福音書第9章59~62節を読みます。
マタイの福音書第8章です。
●18節.イエスは、自分を取り囲んでいる群衆を見て、弟子たちに向こう岸に行くように命じられた。
●19節.そのとき、ある律法学者が近づいて、「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言った。
●20節.イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」
●21節.ほかに、弟子の一人がイエスに、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。
●22節.イエスは言われた。「わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。」
ルカの福音書第9章です。
●59節.また別の人に言われた、「わたしに従いなさい」。その人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。
●60節.イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」
●61節.また、別の人も言った。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」
●62節.イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた。
この個所のイエスの言葉は非常に厳しい言葉です。
最初のわたしの印象は、とてもついていけないと思いました。
イエスの評判が高まり、群衆がイエスを取り囲むようになったとき、イエスはカファルナウムを去ってガリラヤ湖対岸の地方へ行こうとされます(マタイの福音書第8章18節)。
ガリラヤ湖西岸のカファルナウムはイエスが住んでおられた町ですから(マタイの福音書第4章13節)、いよいよイエスは居住地を捨てて巡回の旅に出られたことになります。
マタイの福音書第8章19節・20節で、ユダヤ教の律法学者はイエスに従っていくことを表明しました。
イエスはその表明に対して、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」と言われました。
このように、マタイの福音書第8章19節・20節を読む限り、イエスの弟子としてイエスに従っていこうと願う者は、イエスと同じように「枕する所」のない生涯を覚悟すべきであると言われています。
地上に「枕する所」のない生活とはどのような生活でしょうか。
それは、一言で言えば、家族とか故郷とか地域社会の共同体を離れて、財産とか収入も求めず、この世の体制に守られた生活に安住することをしないで、ただ神が養って下さっていることを頼りにして、ひたすら神の国を求めて生きる生涯である(マタイの福音書第6章25節から34節)と思います。
イエスの弟子になるということはそういうことなのでしょう。
わたしは、この言葉があるから、わたしなど聖職者にはなれないと思うのです。
21節で弟子の一人が、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言ったとき、イエスは、22節で「わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」と言われました。
父親の葬儀は肉親の義務です。その肉親の義務でさえ、死んだ親とか肉親がイエスの教えを信じていないことを理由に「死んでいる者たち」として、その人たちの葬儀を放棄することを求められたのです。
この言葉の意味は、おそらく、この世に関わる事柄はこの世の人たちに任せておき、イエスの弟子は神の国に生きることに専念しなければならないと言われたのでしょう。
「死んでいる者たち」というのは、霊的に死んでいる。イエスの言葉を信じて新しい命に生きていない人のことでしょう。
世間の価値観で、生まれながらの古い命に生きている人のことです。
イエスに従うというのは、それほどこの世から徹底的に離脱することなのです。ユダヤ教神権国家の社会の中で、そのユダヤ教の根底をひっくり返すような新しい教えを広めようとしているのですから、それほどの覚悟は当然のことでしょう。
現在でも、日本のように人権が守られている国もあれば、そうではない国もあります。守られている場でなく、厳しい環境の場でこそ信仰が試されるのでしょう。
ルカの福音書の第9章60節には、この言葉に続いて「あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい」と続いています。
つまり、まとめると、「イエスの言葉を信じていない、(霊的に)死んでいる者たちに関わるこの世のことは、(霊的に)死んでいる者たちに任せて、あなた達は、(霊的に)死んでいる者から離れて、神の国のことを言い広めなさい」ということになります。
ルカの福音書第9章57節から62節には、他に、まず家族に別れを告げることの許しを求めた者に、イエスが「鍬に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われたという対話があります。
つまり、信じています、付いて行きますと言ってから、この世のこと、家族とか親族のことを気にするようでは、イエスの弟子にはふさわしくないと言うことです。
そうでなければ、自分の十字架(イエスの言葉を広めるために受ける迫害とか頼るべき何物も持たない生活)を背負って生きることなどできないですよ、と言われているようです。
といいましても、それを現在のイエスを信じる人たちにそのまま適応するのではなく、これらのイエスの厳しい言葉は、当時の厳しい迫害の中での宣教運動を考慮して解釈する必要があると思うのです。
当時の宣教運動の担い手は、定住せず各地を巡回してイエスの言葉を教える伝道者または預言者でありました。
そのような巡回伝道者の働きによって、各地に定住者たちの信徒集団が形成されましたが、その信徒の集団が教会の始まりになるのですね。
このような巡回の生涯を送る「弟子たち」にとって、この個所の厳しいイエスの言葉は、あの「空の鳥、野の花」(ルカ9-20)の言葉などと共に、自分たちの生き方を根拠づける重要な言葉であったと思います(巡回伝道者の状況は、マタイの福音書第10章5節以降の「十二人を派遣する」によく表れています。)。
しかし現在を生きるイエスの弟子たちの状況は異なり、大部分は都会に定住し、家族を持ち、永続的な職業に従事して給料を貰っています。
当時とは全く状況が違います。同じようには捉えることはできないと思います。
それでは、現在に生きるイエスの弟子にとって、イエスがご自身と同じように巡回伝道に生きる弟子たちに語られた覚悟を求めた厳しい言葉は、どのように受け取ればよいのでしょうか。
そして、この言葉は今を生きるわたしたちに何を語ろうとしているのでしょうか。
もちろん、現在でもインドのキリスト者スンダル・シングのように当時の弟子たちと同じ生き方をした人もいます。
しかし、クリスチャン全員にそれを求めるのは論外で、そのようなことになれば、社会生活とか経済活動が成り立ちません。
先に結論を言いますと、現代的に解釈して、もし神様に呼ばれたら、家族の義務を果たした後で、神の国を宣べ伝えるという使命に献身しましょうとか、まず家族と話し合って了解を得た上で従って参りますというのではなく、それよりも先にまず従ってくることを求めておられるのではないでしょうか。
そうすれば、いろいろな問題は、神様が最善に導いてくださる。
どちらを先にするか、どちらを第一にするか、心構えの問題になると思うのです。
だいいち、置かれている状況(生活環境)と与えられている使命(賜物)は一人ひとり違います。
それぞれの置かれた状況の中で、イエスに従う生き方を求めて、神の国を追求する歩みを第一にすると言うように解釈したいと思います。
神の国を追求する歩みを第一にすると言う心構えがないと、わたしたちは誘惑の多い中で生きる者ですから、いずれ「死んでいる者たち」(イエスの言葉を信じていない人たち)の世界に埋没していくことになります。
そして、その決意は人間の決意で貫くことができるものではなく、聖霊の助けを受けて初めて可能になるものといえます。
長いキリスト教の歴史の中で、多くの弟子たちが聖霊に迫られて、このイエスの言葉に従い、家族や家業を捨てて、どのような迫害にも負けずに、神の国を宣べ伝える使命に献身したのは事実です。
しかし、よく考えれば、現在に生きるわたしたちも周りにはよく似たことがあります。
たとえば、国家のために戦場に赴くとき、会社の転勤命令での単身赴任、このような場合でも、親の面倒、家族の都合など全くお構いなしです。海外赴任もあります。
そのような事態になれば、親の死に目に会うことさえできない覚悟も必要とされるときもあるでしょう。
国家や会社の命令は、強制ですからそこから離脱しない限り拒否することができません。
それは献身して牧師になる時、あるいは修道院に入って尼僧になる時なども同じです。
ただし、宗教的な場合には、それは聖霊の強い働きに押されて、本人によって自発的に選択して行なわれることです。
その方たちが生涯独身を通されるのは、やはり世のことに心を惑わせられるのを避けることが目的なのでしょう。覚悟の現れだと思います。
コリントの信徒への手紙一 第7章32節・33節「思い煩わないでほしい。独身の男は、どうすれば主に喜ばれるかと、主のことに心を遣いますが、結婚している男は、どうすれば妻に喜ばれるかと、世の事に心を遣い、・・」とも書いてあります。
もちろん、現在でも聖職者になるのならば、この世のことについては、この世の中で生きなければならない一般のクリスチャンと違い、経済的にも、人間的にも厳しい生き方を求められると思います。
聖職者は特別な任務を与えられた召命を受けた方です。
だから、そういう方々は信徒の献金で養われて、欲望が渦巻く世間から守られていると思うのです。
一人ひとりが持っている賜物は違います。同じイエスを信じている者でも一人ひとり生き方が違います。
わたしにはわたしが置かれた場所で、イエスのことを第一に考えるイエスの弟子でありたいと思います。
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