天に富を積みなさい(マタイ6章)
今回はマタイの福音書6章19から21節と24節です。共観福音書の並行個所はルカの福音書12章33から34節です。マタイの福音書に沿って読んでいきたいと思います。
マタイの福音書第6章
●19節.「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。
●20節.富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。
●21節.あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」
●24節.「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」
ここでは、地上の富と天の富が問題になっています。
この富というのは、本来「集められた(貴重な)品物」を指しているということですから、「宝」と訳した方が良いという説があります。
ここのたとえ話を一言でいえば、地上に蓄えられた宝は、虫や錆が品物をダメにし、盗人が家に侵入して盗んでいくというように、何れは無価値になるのに対して、天に蓄えられた宝は、そのような被害にあうことはなく、いつまでも価値あるものとして残るとしています。
その天に何れあなたたちは行くのですから、その時のためにこの地上にいる間に天に持っていける、天において価値ある宝を蓄えておきなさいと言うことでしょう。
ここでの「宝」というのは、わたしたちが現世を生きる上に価値あるものとするすべてをさす象徴としてとらえたいと思います。
わたしたちが人生において追い求める価値あるものとして、通常、財産とか地位とか名誉などだと思いますが、それらはこの世を去るときには持っていけないものですから、天の国においては無価値です。
ここでは、そういう地上の宝ではなく、天に、すなわち神の国において価値あるものを求め蓄えなさいということでしょう。
マタイの福音書第第6章の33節で、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。」と表現していますから、この「神の国と神の義」が天において価値ある宝と言えないでしょうか。
ルカは天の宝の意味を具体的に第12章33節に書いています。
「自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない宝を天に積みなさい。・・」と言っています。
簡単にいえば、天の国に持って行けないような地上の財産を売り払って、施しをすることが「富を天に積む」ことだと言っているのだと思います。
また、ルカはこのように言っています。
ルカの福音書第12章35節の「あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」です。
この意味は、「あなた方の富」とは、この世の富(財産とか地位とか名誉など)だと思いますから、わたしたちが社会の一員としてその富を求めて毎日暮らしていますが、問題はその中で何を価値あるものとして追求するのかという心の在り方、心の姿勢が問われているのではないでしょうか。
だから、何もこの世の富(経済活動)を求めることを一切排除して、清貧生活、隠遁生活をしろとは言われていません。
もしわたしたちが社会活動において地上の富や地位や名誉を価値あるものとして、それらを自分の欲望を充足するためのみで求めているならば、それを守るために地上の出来事に一喜一憂し心は不安定になります。
そのようにして、苦労して残した「地上の宝」は、」この世を去って神の国に入るときに持っていけません。
それに対して、地上の富を求めることを否定はしないが、その結果得た地上の富を隣人に仕えるために用いる、つまり、求めて得た地上の宝の使い方を問題にされているのですね。
その富を、隣人を愛するために使うならば、それは天に富を積むことになるのです。
そうして、天に富を積むならば、それは神のみ心に沿った生き方なので、その人の心は安定し、神の霊、聖霊の喜びに満たされ、来世への希望に生きることができる、と言うことでしょうか。
マルコの福音書第10章17~27節に、「金持ちの男」というイエスのたとえ話があります。
内容を簡単に書きますと、ある金持ちの男がイエスのところに来て、永遠の命を得るためにはなにをすればよいのでしょうか、と尋ねます。
するとイエスは、神の掟(殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え)を守れと言われます。若者はそういうことは皆、子供の時から守っていますと答えます。
イエスは言われます。「持っているものを売り払い、貧しい人に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それからわたしに従いなさい。」と。
すると若者は、たくさんの財産を持っていたから、悲しみながら立ち去った。これを見てイエスは、「金持ちが神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、ラクダが針の穴を通るほうが易しい」と言われたので、弟子たちは、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言って驚いたとあります。
イエスはそういう弟子を見つめて「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」と言われました。
このたとえ話で注意が必要なのは、金持ちの若者が昔から守るように教えられているモーセ律法(神の掟)で答えたのでイエスも同じ律法で、つまり、「すべての持ち物を売り払いなさい」と答えられたということだと思います。
これはとても厳しい言葉ですが、律法で生きるのなら、その律法を形式化しないで、また、特定の人たちの地位や特権を守るための手段にしないで、どこまでも律法を守り通しなさいと言うことだと思います。
わたしの知る限りでは、マザー・テレサはこの教えを文字通りに実行されたと思います。
修道院に入る人もこれを実行されました。しかし、誰でもができるわけではありません。当然わたしにもできるわけがありません。
だから、弟子たちは言ったのでしょう。「いったい誰が神の国入ることができるだろう、」と。
でも、イエスは「人にはそれはできないが神にはできる」と言われました。
ということは、わたしたちは自分にできないことをイエスを信じているからと言って、自分の力で何とかしなければなどと悩む必要はない。
その人に内住した神の御霊、聖霊がわたしたちが不可能と思われることでもできるようにしてくださるということでしょう。
それにこの聖句は今を生きるわたしたちに救われるための努力が求められているわけではないので、つまり、すでにイエスの十字架によってわたしたちはすでに救われているのですから、そのすでに実現した救いの恩恵の中で、それぞれに与えられたところに従って歩んでいけばよいと思うのです。
そうすれば、イエスの言葉を信じた者に聖霊が内住され、わたしたちの心を清め、導いて下さると思うのです。だから、神の導きを信頼して委ねることが大切なのですね。
聖霊は、わたしたちの心の中にある様々な欲望、つまり、お金に対する執着や見栄や名誉心や傲慢な思いをひとつひとつと取り除いて下さり、少しずつ心の中が清く(貧しく)なるように導かれていくのだと思うのです。
イエスは「心の貧しい人は幸いだ」といわれましたが、そのような状態に導かれていくのだと思うのです。
イエスの御霊はわたしたちを強制するのではなく、外面からでなく内側から時間をかけてゆっくりと変えてくださるのですね。
最終的には、身も心もイエスの御霊に委ねる。そういうところへ行き着くのだと思います。そして、イエスに似た者になるのです。
だから、マタイの福音書第6章33節にあるように、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」ということですね。
なお、神の国を求めることは神の支配を求めることで、「神の国」と「神の義」の中の「と」は「すなわち」と言う意味だと言うことですから、「神の国」を求めることは「神の義」を求めることと同じ意味になります。
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