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2017年11月22日 (水)

求めなさい(マタイ7章)

今回はマタイの福音書第7章7~11節を読みます。

共観福音書の並行個所はルカの福音書第11章9~13節です。

この個所も、イエスの山上の説教の中にあります。

ところで、わたしが思うところ、この山上の説教は余りにも有名なのですが、世間ではイエスが語られた道徳のようにとられていると思うのです。

そうであればわたしたち人間がとても守れないことをイエスは要求されたことになります。そうではなく、この個所は、道徳ではなく神の恩恵による支配の告知なのです。

いわゆる、御国の福音ということです。念のために書いておきます。

御霊によって成就されるから、福音なのです。

マタイ の福音書第7章
●7節.求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。

このみ言葉は、クリスチャンでない方は、この「求めなさい」にあらゆる現世的なものを当てはめて解釈している方が多いと思うのです。

つまり、この聖書の言葉は一般的に、わたしが知るところ、どのような困難に直面しても、どんなに目標が高くても、断念することなく追い求めれば、必ず目標を達成できるという激励の言葉として用いられているのではないでしょうか。

そのような意味なら、確かに道徳、いや、人生訓になるのかと思います。

ちょっと、世間的に成功した人なら誰でも言えるのではないでしょうか。

「求めなさい」「探しなさい」「門をたたきなさい」ですから努力すれば誰でも得られると言っているように取れます。
誰でもですよ。資格など要らないのですよ。

もし、7節の言葉が一般的に言われている意味であれば、誰でも欲しい物を求めて努力するのは当たり前ですから、この世にいさかいは起こらないし、競争も生まれないし、不条理とか不公平もずいぶんなくなることでしょう。人生生きるのに苦労はしません。

それでも、生まれつき、つまり、五体不満足に生まれるとかで、その人の責任によらずして努力すらできない人たちもおられます。

このような人は、どうなるのでしょうか。

そのように現実の人生は、努力したからといって、誰でも求めるものが得られるというわけではなく、むしろ、求めても得られないことの方がはるかに多いと思います。

●8節.だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。

このみ言葉によるとイエスは「誰でも」、資格がなくても、求める者は得られると言われたのです。

このようなことが言えるイエスは、その求めに応えることができる方だと言うことです。

それでは、実際は求めても得られないこの人生で、イエスはなぜ「求めれば誰でも得られる」と言われたのでしょうか。

そうです、「誰でも」と「求める者」の間に、神の恩恵が支配する場ではと入るわけですね。

神の恩恵が支配する場では、求める者は何ら資格なくして得られるのです。

それでは、何を求めるかですね。それは11節で触れてみたいと思います。

神の恩恵が支配する場において神様から頂くのですから、資格とか条件以前の問題です。

神様の恩恵が支配する場では、人は神様から、何の資格がなくても、無条件に何でも受けることができる。

神様が人間に与えてくださるものは、資格を問うことなく、求める者には誰でも無条件で与えられると言うことだと思います。

神様は人間にとっては創造主です。人間は被造物です。創造主は被造物が求めることなら、もし、その求めることが被造物にとって必要ならば何でも与えてくださるということでしょう。

人間の親が子供に必要なものであれば何でも無条件で与えるようにです。これが、イエスの神の国の福音です。

イエスは人とこのような関わりにある神を父と呼ばれ、父は子を無条件に愛して、その子にとって良いものを与えてくださると言っておられます。

そうであれば、求めなければ与えて下さらないのかと言う質問には、そういうことはないと思います。

人間の親でも子供にとって良いと思われるものは、求めなくても与えますからね。それは次節以降です。

●9節.あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。

●10節.魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。

●11節.このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。

イエスは神の恩恵を、人間の親をモデルにして語られます。9節と10節では、何を求め何を与えるかが話題になっています。

11節で、イエスは「あなたがたは悪い者でありながら」と前置きした上で、「自分の子供には良い物を与えることを知っている」と語られていますが、この悪い者とは、人間が本性的に自己中心で、自分のために求めるばかりで、自分を犠牲にして他者に与えるようなことはしないので、そのような本性の人間を「悪い者」と呼んでおられるのでしょう。

そのような自己中心の人間も、自分の子供に対しては、自分を犠牲にしてでも良い物を与えます。

わが子に対する親の愛は、人間の本性である自己中心性の例外となります。

最近は自分の利益のために子供を捨てる親もいますから、親の愛も一概に自己犠牲の愛とも言えないところがあるようですがね。

ここでは親の子に対する愛は、当然人間に生まれ持って備わったものとしているようです。

そうであれば、親の子に対する虐待はどのようにとらえればよいのでしょうか。

やはり、神から離反して自己中心に生きている原罪と悪魔の唆しが原因となるのでしょう。

本来親は、自分の子供に少しでも良い物を与えようとするものです。

「パンを欲しがる自分の子供に、石を与える」親はいない。「魚を欲しがるのに、蛇を与える」親もいない。

本性的に悪い者である人間の親でもそうであるならば、まして悪いものを持たない天の父なる神が、自分の被造物である人間に「良い物」をくださらないことがあろうか、とイエスは断言されるのです。

ルカの福音書の並行記事(ルカ11章9節~13節)では、「あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。

また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか」となっています。

卵の代わりのさそりが用いられています。これは、当時の人がそのようなたとえを日常的に用いたのでしょう。

だから、パンの形に似た石があり、また、さそりは体を丸めると卵に似ているので、このように説明すれば当時の人には分かりやすかったのでしょうか。

それでは、ここで良いものとは何でしょうか。

ルカの福音書は11章12節で、良いものを「・・まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」と書いていますが、マタイは何も書いていません。

わたしはこの個所の良いものは、聖霊と解釈したいと思います。

イエスがこの世に来られた意味を考えると、そのように思えるのです。

マタイの福音書は、イスラエル人のために書かれていますから、旧約聖書の伝統に倣い、世間一般的な良い物を指しているのかもしれません。

そうであれば、父は祈り求める子に様々な形で「良い物」を与えてくださる。

健康や生きていく上で必要な物、家族や友人など人との出会い、そして、才能や技能などいわゆる知恵などわたしたちに必要なものは祈り求めれば応えてくださるということになります。

もちろん、求めなくてもそれらが必要であれば下さると思います。でも、祈り求めるのに越したことはありません。

だから、わたしたちは今享受しているそれらの「良い物」を父からの恵みの賜物として感謝して、謙虚に受けとる信仰が求められていると思うのです。

それらの良い物をもらえるのは、なにも自分が特別だからではないのです。

わたしたちが生きていく上で得られるすべての良い物は神からの無償のいただき物です。

といいましても、現実は、せっかく良い物をいただいても取られてしまうとか、求めて祈っても与えられない場合が大いにあります。

最後にこの問題を考えてみたいと思います。

現実には、祈っても聞かれないことが多いので、「だれでも求める者は与えられる」という恩恵の支配について疑問を持ちます。

それでも、信仰が揺らいだことは無いのですが、そのような場合、わたしは、自分が求める良い物が、神がわたしにとって良い物とされるものと違っているのではないかと考えるのです。

祈っても与えられない場合は、今その時ではないのか、あるいは、わたしに必要なものではないのではと考えるのです。

子供が欲しがるものを無制限に与える親はいませんからね。

ケーキをほしがるからと言ってケーキばかりを与えていては、子供は病気になります。お金が欲しいからと言って、必要以上にお金を与えればその人は傲慢になります。

わたしは困った時の神頼みも良いと思うのです。

求めた物が得られるかどうかは分かりませんが、神がわたしの生涯を通してわたしにとって良いと思われる物を吟味して下さると信じていますから、得られても得られなくても信頼してお任せすれば良いと思うのです。

なお、今日の表題の「求めなさい」を一言でいえば、「人生を歩く道を求めなさい」と言うことだと思います。
キリスト教は道を求める宗教だと思うからです。

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