あなたたちのことを知らない(マタイ7章)
今回はマタイの福音書第7章21節から23節 を読みます。
共観福音書の並行個所はルカの福音書13章25節から27節です。
●21節.「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」。
この21節も、偽預言者に向かって、イエスの言葉を持って終わりの日の神の裁きを忠告しているのでしょう。
「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者」とは、イエスが主ですから、イエスが神の子として権威の座にある方として告白していることになります。
ここの「天の国に入る」とか次節22節の「かの日」などは未来形ということですから、終わりの日、終末を指していると思います。
ここで言いたいことは、天の国には「天の父の御心を行う者」だけが入れるということでしょう。
●22節、「かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう」。
●23節、「そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ』」。
「かの日」は未来形ですから、終わりの日、すなわち、神が御国を完成される日に、神の裁きを通って御国に入ることができるのは、イエスを主と言い表す者全員ではなく、イエスが啓示された父なる神の御心を行う者だけであるということでしょう。
行いは必要でなく、信じることによって救われるとする信仰義認説と矛盾するように見えます。
神の国とか永遠の命に入る者は、ユダヤ教では律法を守り行う者としていました。
それに対して、イエスは、律法を守ることができない者たちを招き、自分の仲間として食事を共にして、彼らに向かって、「あなたがた貧しい者は幸いである。神の国はあなたがたのものである」と宣言されました。
この福音書を書いているマタイは、そのことを十分理解しているはずです。
その上で、こう言う言葉が出るということは、イエスを主と告白するものの中には、ただイエスの名を口にし、イエスの仲間であることを言い表してさえおれば、それで神の国[天国]に入れると考える人たちが出てきたからでしょう。
22節は、その者たちが裁きの日に主張する弁解の言葉をイエスはわざわざ予告されたのですね。
この時代、イエスの名によって奇跡を行い、イエスの言葉を教え伝えるカリスマ的な「預言者」がイエスの人気にあやかりたいがために大勢生まれたのでしょう。そして、実際に奇跡を行ったのでしょう。
このような「預言者」でも、ここで見たような意味で「父の御心を行う者」でなければ、「不法を働く者」として、「かの日」にはその名を呼んでいたイエスご自身から「あなたたちのことは全然知らない。わたしから離れ去れ」と拒否されるのです。
ルカの福音書第13章24節から27節もほぼ同じ内容だと思います。
たとえ奇跡をおこなっても、その奇跡が神からものとは限らないのです。
偽預言者は羊の皮をかぶって来ます。羊というのは、イエスの弟子のことですから、偽預言者は、見かけはイエスの弟子のようなふりをしているのでしょう。
だから、本物の預言者との見分けがつきにくいということでしょう。
例えば、その預言者が、言葉だけで何も行いを伴わないなら、すぐに偽者だと気づくことができます。
また、明らかに悪いことをしている場合も同じです。
ところが、偽預言者はそのような明確なことはしないで、むしろ彼らは「御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行う」のです。だから本物と偽物の区別が難しいのです。
偽預言者は本物のイエスの弟子と同じように、イエスの御名によって預言したり、悪霊を追い出したりしていますが、本物とどこが違うかといいますと、その栄光をすべて、自分のものとしているということだと思うのです。
しかし、偽預言者でも預言したり悪霊を追い出したりできるのです。
これは、わたしが思うに、悪魔の働きだと思うのです。悪魔でも少しは奇跡を行ったり、預言したりできると聞いています。
イエスの御名によりなされた預言とか悪霊の追い出しとか奇跡は、神のみ業なのでその栄光は本来神に帰すべきものですが、栄光を自分のものとして、それをもって天の国に入ろうとしているのです。
そのような者たちが見ているのは神ではなく、もはや自分自身でしかないということでしょう。
終わりの日には、そのような者に対して主イエスは「あなたたちのことは全然知らない。」と言われるのです。
それでは、21節の「わたしの天の父の御心を行う者」というのはどういう者でしょうか。
それは、「天の父が慈愛深いように、慈愛深い者」となることだと思います。
なぜそうかといいますと、イエスが言われる神の恩恵の支配に入ることとは、父なる神の恩恵、すなわち自分は神の慈愛によって生かされているのであるから、自分の隣人に対しても同じ慈愛をもって隣人を受け入れ愛することだと思うのです。
そのような場が、まさしく、神の御霊の働く恩恵の支配する場だと思うのです。
ルカの福音書第6章36節に「あなたがたの天の父が慈愛深いように、あなたがたも慈愛深い者でありなさい」とあるとおりです。
最後に、その人が天の父の御心を行う者として生きたかどうかは、神が終わりの日に判断されます。それまでは、裁きは据え置かれます。
わたしたちクリスチャンも主よ主よと言いながら神のみ心を行わないならば、裁きの日にイエスに「あなたたちのことは全然知らない」と言われそうです。
しかし、イエスの言葉を信じることによって救われるというのは真実ですから、信じていれば、直ちに、あるいは、必ずイエスの教えが行いとなって表に出てくるかといえば一概には言えないと思うのです。
また、信じていると言いながら、教えと反対のことをしていれば信じているとは言えないのではないかとも思いますが、神は人間の御心を守れない弱さをよくご存知ですから、常に悔い改めて赦しを乞えば赦されるとも思うのです。
新しい人間の創造は、現在進行形です。わたしたちは一歩一歩少しずつかえられていくのだと思います。
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