体のともし火は目(マタイ6章)
今回はマタイの福音書第6章22節から23節です。共観福音書の並行個所はルカの福音書第11章34節から36節です。
マタイの福音書第6章
●22節.「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが」。
●23節.「濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。」
目と体の関係をともし火のたとえとして語られています。
「あなたの中にある光」とは、聖霊であって新しい命の光を指します。
そのキリストの御霊は福音を受け入れて心にとどめればその人の内に内住します。
その「命の光」は、わたしたちの存在の意味を照らしだす「ともし火」であるということでしょう。
それが、内にあって輝いているときは自分の存在の意味とか本当の姿がよく見えて、自分を明るく照らし出すと言うことだと思います。
具体的には、神との正しい関わり、隣人との正しい関係、時の流れの中での自己の位置などが見えてきて、自分の存在が明るく照らし出されるようになると言っておられるのでしょう。
パウロは信仰者がこの世を生きる姿を信仰(神との関係)と希望(来世)と愛[隣人関係]によって生きると言っていますが、そのことと同じことを言っているのでしょう。
目が健康で、視力が十分にあるときは、周囲がよく見えて、自分がどこにいて、どのような状況にいるのかがはっきりと見えるように、霊の目が澄んでいるときは、自分がどこにいるのか、どこに何があるのかがよくわかるから、心は安定して平安で、体は元気で輝いています。
このようなときは暗闇を感じない。このような状況を「全身が明るい」と表現されているのでしょう。
反対に、目が病んでいて、視力が衰えてよく見えないとか、見えなくなってしまうと、周囲が見えなくなり、自分がどこにいるのか、また自分がどのような状況にいるのかがわからなくなり、心は不安定になり、体は元気がなくなります。
このような状況を「全身が暗い」と表現されているのでしょう。
それと同じように、その内なる御霊の光がなくなれば、「ともし火」を持たないで暗闇の中を歩くようなもので、神との正しい関わり、隣人との正しい関係、時の流れの中での自己の位置などが見えず、自分の存在の全体が暗闇の中に沈んでしまいます。
この状態をマタイは「だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう」(23節)という言葉で表現したのでしょう。
次ぎにルカの福音書の並行個所に移ります。
ルカの福音書第11章
●34節.あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い。
●35節.だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい。
●36節.あなたの全身が明るく、少しも暗いところがなければ、ちょうど、ともし火がその輝きであなたを照らすときのように、全身は輝いている。」
目が澄んでいるか、濁っているかはマルコと同じですが、35節の「だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい。」と弟子たちへの警告にしているところが違っています。
わたしはマルコの形がイエスの実際の言葉に近しいと思っています。
ルカは、そのマルコの言葉を用いて弟子たちの霊的な状態に警告を発したのだと思います。
34節は、マルコのところで書いたように、身体における目の役割をたとえとして、弟子たちの中に到来している御霊、新しい「命の光」がわたしたち人間の存在、生涯に決定的に重要な位置を占めると語っています。
霊の目が澄んでいるか、澄んでいないかは、「内なる光」、すなわち神の御霊、聖霊がその人に内住し、その人が聖霊の導きの中にいる、そうであればその人の命が輝いているので、輝いている状態を目が健康でよく見えると表現されているのだと思います。
霊の目が澄んでいれば、つまり「内なる光」が輝いていれば、わたしたちは自己の存在に意味を知り、自分がどこにいるのか、何処へ行くのかを正しく認識して、安心して人生を歩むことができます。
しかし、霊の目が濁っていれば、つまり、「内なる光」が消えれば、わたしたちは自己の存在の意味も分からず、自分がどこにいてどこに向かっているのか分からず、人生は不安と暗闇に陥るということでしょう。
自己の存在を明るく照らし出すのは「内なる光」、すなわち霊の目だといわれているのでしょう。
そして、霊の目が澄んでいるかどうかは、聖霊が内住されている心の在り方次第ということでしょう。
なお、ここで「澄んでいる」とか「濁っている」と訳されている語は、「健全である」とか「病んでいる」という意味だそうです。
キリストにあって賜っている御霊、聖霊は内なる新しい「命の光」です。
その新しい「命の光」こそキリスト教に対する批判者に対抗できる、唯一の力の源泉であり、その内なる命の光を消すことなく、人々の前に輝かすように警告したのでしょう。
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