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2017年11月29日 (水)

百人隊長の僕をいやす(マタイ8章)

今回はマタイの福音書第8章5節から13節を読みます。

共観福音書の並行個所は、ルカの福音書7章1節から10節です。

マタイの福音書に沿って読んでいきたいと思います。

マタイの福音書とルカの福音書は基本的には内容は同じですが、状況の説明は少し違っています。

違っている個所は、病気で苦しんでいるのは、マタイでは百人隊長の僕、ルカでは部下です。

どちらにしても、百人隊長の切実な願いからすると、その僕は百人隊長にとって大切な存在なのでしょう。

ほかには、マタイでは百人隊長自身がイエスのもとに来て子供の癒しを願っていますが、ルカではユダヤ人の長老たちを使者にたてイエスに中風の癒しを願っています。

マタイの福音書8章
●5節.さて、イエスがカファルナウムに入られると、一人の百人隊長が近づいて来て懇願し、

●6節.「主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます」と言った。

ローマ軍の百人隊長が、ユダヤ人である中風の僕の癒しをイエスに懇願します。

よほど大切な僕であったのでしょう。

なぜ大切かは書いていませんが、ルカの福音書第7章5節では、ユダヤ人の長老は「・・わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです。」と言っていることから明らかです。

なお、百人隊長というのはローマの軍隊の中の地位ですが、必ずしもローマ人とは限らず外国人であることもあると言うことです。

しかし、ローマ軍の百人隊長ですから、ユダヤ教以外の異教の人です。

その人たちもイエスがなされる御業を見て、イエスを信じていたのです。

僕はユダヤ人でしょうから、百人隊長は、ユダヤ人に対し、好意的であったのでしょう。

●7節.そこでイエスは、「わたしが行って、いやしてあげよう」と言われた。

●8節.すると、百人隊長は答えた。「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。

ここの「わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません」という言葉も、マタイでは百人隊長自身に、ルカでは百人隊長の友だちに言わせています。百人隊長は、謙虚で神を恐れる人です。

●9節.わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」

ここの百人隊長の言葉の真意はおそらく、「わたしの部下は、わたしに与えられている権威によって、わたしの言葉一つでその通りにします。

まして、あなたは神から遣わされた救い主です。あなたがひと言葉を発して下さるならば、わたしの大事な僕は癒されます。」ということでしょうか。

百人隊長は自分の軍人としての権威よりイエスに言葉を求めたのです。

イエスは父なる神と神の言葉を共有されておられるのですから、イエスの言葉は神の言葉です。神の言葉には、神の思いとその思いを実現する創造の力があります。創造主ですから当然です。

●10節.イエスはこれを聞いて感心し、従っていた人々に言われた。「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。

「イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」というイエスの言葉は、百人隊長とユダヤ人を比較して、百人隊長の信仰を褒められたのでしょう。

状況から見ると、おそらく、この百人隊長は異邦人(ユダヤ人以外の人)であったのでしょう。マタイの福音書はそのことを言いたかったのではないでしょうか。百人隊長の信仰を強調したのは、ユダヤ人に対する当てつけのように思われます。

それでは、この10節の「わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」の異邦人の百人隊長の信仰はどのような信仰なのでしょうか。

百人隊長は、「主よ、(たしかに)わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません」と言って、自分が資格のない者であることを認めて、神の前にへりくだっています。

そして、大切な僕を癒してほしいと言う切羽詰まった状況から、自分の身分も投げ捨ててイエスにすがっています。

百人隊長の懇願に対するイエスの答えは、「わたしが行って、いやしてあげよう」といわれましたが、百人隊長はその答えに対し、マタイの福音書8章8節で、「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。」と答えて、イエスが家に来られるのを断わっています。

すぐに来てほしいと思うのが普通なのに何か不自然です。

不自然ですが、そこにはイエスを家に迎えなくても癒しがなされると言う、百人隊長の強い信仰をも見ることができます。

が、同時にユダヤ人であるイエスが異邦人の家に入られることに気を使っている(当時ユダヤ人は汚れを受けないように異邦人の家に入るとか食事を共にすることを避けていましたので)と理解することもできます。

それでも百人隊長が僕の癒しをイエスに切に願ったのは、自分がイスラエル人ではないので、イスラエルの民に約束された神の祝福を受ける資格のない者であることを知っていて、イエスを通しての神の恩恵は無条件で、つまり、ユダヤ人異邦人の区別なく注がれるものであることを信じていたと言うことになります。

百人隊長の信仰、すなわち、イエスが神と一体として生きる者として、神の恩恵を無条件に、つまり異邦人にもイスラエル人にも公平に恩恵を与え、病気や悪霊までを従わせる権威ある神の言葉を持っておられる方であると信じた信仰を見てイエスは、「イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」と称賛されましたのでしょう。

●11節.言っておくが、いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。

10節のような信仰をもつ百人隊長をモデルとして、神に選ばれたあなた方でなく、いつか、異邦人(イスラエル人以外の人々)が救われて祝福されるとイエスは預言されます。

●12節.だが、御国の子らは、外の暗闇に追い出される。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」

11節の「東や西から大勢の人が来て」の大勢の人とは異邦人(ユダヤ人以外の人)のことを指すと思いますので、異邦人が天の国の宴会の席に着き、「御国の子らは、外の暗闇に追い出される」ですから、本来神の民として選ばれているユダヤ人が外の暗闇に追い出されるということになります。

ここの「御国の子ら」と言うのはイスラエル人とすれば、イスラエルは神に選ばれた民として、自分たちだけが御国の約束に与れる者であると自負して、イエスを終末に顕れるメシヤだと信じないで拒否しているので、その不信仰を責めておられることになります。

●13節.そして、百人隊長に言われた。「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。」ちょうどそのとき、僕の病気はいやされた。

イエスは「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように」と言われた同時刻に、この百人隊長の僕は癒されたのです。

なお、ここでイエスはイスラエル人を厳しく批判していますが、その批判の対象はイスラエル人全体ではなく、自分たちに都合よく律法を解釈して独占してきた、特権階級、指導者層だと思います。

現在に生きる、クリスチャンもキリストを知ったからと言って、独善的な聖書解釈をして世間から目をそむけていれば、イスラエルと同じ目に遭わないとも限らないと思います。

今を生きるわたしたちに対する警告と受け止めたいと思います。

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