神と富(マタイ6章)
聖書個所は、マタイの福音書第6章24節/ルカの福音書第16章13節です。
マタイの福音書第6章を読んでみたいと思います。
●24節.「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」。
「主人に仕える」というのは、当時の奴隷制社会において、奴隷が主人に仕える生活をたとえとして用いて神と富の両方に使えることはできないと教えます。
奴隷は一人の主人に仕えて、全面的にその主人の意志に従わなければならない。ある時は主人に従い、他の時には他の主人に従うというような、自分の都合に合わせて「二人の主人に仕える」ことは奴隷には許されてはいません。
ここでは、憎むとか愛するという感情を表す言葉を使っていますが、二人の主人に使えることと、愛したり憎んだり、親しみを持ったり軽んじたりするような感情を表す言葉とどのように関わるのでしょうか。
感情ですから好き嫌いで主人に使えることを言っているのでしょうか。
本来、主人と奴隷の間に感情が入ることは許されないはずです。奴隷は金で買われているのですから、憎んでいても従わなければならないはずです。
感情が入る場合として、たまたま、よい主人に恵まれれば、奴隷は主人を愛し親しみを持ち、自分の主人と対立する他の主人(奴隷所有者)を憎み軽んじることもあるでしょう。
そのときは、その奴隷は自分が良い主人に巡り合えたことを喜ぶでしょう。
つまり、ここで言わんとすることは、自分の気持ちで選り好みできないということでしょう。神と富は、比較して好き嫌いで選択するようなことではなく、全く別なもので、神を第一に愛さなければならないのです。
次元が違うのです。
このように、奴隷が主人に仕えることをたとえとして、人が「神と富」の両方に使えることはできないと教えられています。
イエスは「富」を求めることに人生のすべてを置いての生き方を、偽りの神に使えることとし、それは、まことの神に仕えることと両立しないと言われています。
では、まことの神に仕える生き方とはどういう生き方でしょうか。
金儲けを軽視するとか放棄し、隠遁生活をし、宗教活動に熱心に励むことでしょうか。
そうではないと思います。神は決して経済生活を拒否しておられないと思うのです。
「神に仕える」とは、まことの神を愛し、神が求めておられることに従おうとすることと考えます。神が求めておられることは、すなわち神を愛し、隣人を自分のように愛すること、隣人に仕えることであると考えます。
それは、神の似姿に造られた人間を人間として尊び、人間の尊厳に仕えることを求めておられると思うのです。
資本主義社会は、経済的価値を神として拝み、富の極限を求めることを正しいこととします。
資本主義社会は、富を追い求める社会です。その社会は、罪を生み、勝者と敗者を生み、富を重んじ人間の尊厳を軽んじる社会です。
本来、政治も経済も人間の尊厳、つまり人格とか人権を尊重するためにあるはずです。
そのように考えるならば、イエスの言葉は人格とか人権を軽んじる現代文明に対する批判となります。
わたしは必ずや資本主義社会はこのままでは崩壊するものと思います。
前にも書きましたが、資本主義は自ら罪を生む社会です。
従って、行き着く先が崩壊しかないと思っているのです。富の過度な追求のために戦争を生み、殺戮を生み、飢餓を生み、敗者を生む。人間の尊厳を無視する姿そのままです。
まさに、人間の欲望を最大限に尊重する社会です。
資本主義社会の崩壊だけならばまだ良いのですが、そのためにかろうじて生き残っている隣人愛の共同体(キリストの民の共同体に限りませんが)の人間関係が崩壊することを心配します。
でも神は、人間はそのような生き方しかできないことをよくご存知です。そのような状態になれば、きっと、神の介入が実現するものと思います。
神は、この世の良きことも悪しきこともすべてを用いて、わたしたちのためになるように報いてくださると思うのです。
次に並行箇所であるルカの福音書第16章13節を見てみますと、「どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」とあります。
マタイが冒頭の言葉を「だれも」としているところを、ルカは「召使い」を入れて、「どんな召使いも」としているところが違うだけです。
ルカが「召し使い」を 入れたのは、この「二人の主人に使える」たとえ話を、「不正な管理人」のたとえ話の中に組み入れたから、奴隷という語の代わりに「召し使い」という語を使ったのでしょう。
奴隷も召し使いも意味としては同じようなものでしょう。ルカは合理的な考えの持ち主ですね。
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