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2017年10月 2日 (月)

山上の説教(1)(マタイ5章)

マタイの福音書5章1~3節/ルカの福音書6章20節を読みます。

イエスの山上の説教はあまりにも有名でまた解釈が難しくまとめるのに苦労すると思います。でも、やってみたいと思います。きっと、主が知恵を与えて下さるでしょう。

山上の説教もやはり現在に即して解釈すべきだと思います。 

だから、マタイはわたしたちがこの「天の王国の定め」(イエスの律法とも言われていますが)を実生活に活かして「守り行なう」よう勧めていると思うのです。

それは同時に、自己の意志とか努力でなくイエスの十字架の恵みと復活の御霊にあって生きる生き方だと思います。

パウロが言っているように、キリストにあって、信仰と愛と希望に生きるということでしょう。

山上の説教はわたしたちの能力とか努力では到底成就できるものではありませんが、自己を無にして、イエスの御霊、聖霊の導きに自己を明け渡すことによって初めてそれが可能だとマタイは教えていると思うのです。

もちろん、わたしたちは生きている限り自我はつきものですから、自己を無にする、明け渡すと言ってもなかなかできることでは、いや、ほとんど不可能なことです。

だから自己を明け渡すのも祈りながら御霊にゆだねるしかないと思うのです。

山上の説教は、わたしたちが到達することが許されている最も高い神の知恵と見るべきだと思います。

それでは、マタイの福音書を中心に見ていきたいと思います。

まず、マタイの福音書とルカの福音書を比べると、マタイは天の国、ルカは神の国と表現しています。

イエスは神の国と表現していますので、マタイの天の国と言う表現は、ユダヤ教から来ているのでしょう。どちらにしても、同じ意味だと思います。

なお、一般に言われている死後に行くところと言う意味の天国と、この聖書で言う神の国とは同じではないと思います。

また、神の国の国というのは、領土ではなくて神が支配する領域という意味ですので、一般に神の国を神の支配とも訳されています。

そういう意味で、約2000年前に、イエスがこの世に来られたから、この世は神の支配の中に入ったのです。

したがって、神の国はそこに来ている(ルカの福音書第11章20節)と言えます。

ですから、天国はすでにこの世で始まっている神が支配する領域である神の国と違って、希望として来世にあるのです。

聖霊降臨以降はわたしたちの中にすでに来ていることになります。決して死んだあと、すなわち、来世のことではないのです。

その神の支配する現世、つまり神の国についてイエスは、御国の福音と言う言葉を使って告知しています。
それでは、イエスの御国の福音である山上の説教を1節から順次見ていきたいと思います。

マタイの福音書第5章
●1節.イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。

ここの群衆は、4章23節以降のおびただしい病人を癒された時に集まってきた群衆でしょう。

マタイは7章28節でその群衆はその教えに非常に驚いたと書いています。

非常に驚いたということは、イエスの教えがユダヤ教の教えとはまったく異なる新しい教えであったということでしょう。

その人たちは、イエスを通して働く神の御霊の働きで病を癒してもらい、その癒しの業を見てイエスを神から遣わされた人ではないかと思って助けを求めて集まってきた人達だと思います。次の聖句からそのことは推測できます。
マタイの福音書第4章24節には、「イエスの評判がシリア中に広まった。人々がイエスのところへ、いろいろな病気で苦しみ悩む者、悪霊に取りつかれた者、テンカンの者、中風の者など、あらゆる病人を・・」とあります。

御国の福音の聴衆はそういう人達だと思います。その中に、将来弟子として召される人たちもいたのでしょう。

「山に登られた」ですから、イエスはこの「大勢の群衆」に語りかけるにおいて、少し高いところのほうが声もよく通り顔も見えるので、高さは丘の程度かもしれませんが山に登られたのでしょう。

イエスの言葉は、新しい神の啓示の言葉です。聖書にはモーセ律法を超える、いやモーセ律法を完成させる言葉と書いています。

救いは律法を守ることだと信じ、律法を守ることに縛られてきた群衆は、律法から解放される全く新しい教えに目を見張らせて、心を躍らせて驚きを持ってイエスの言葉を聞いたのだと思います。

マタイの福音書第5章
●2節.そこで、イエスは口を開き、教えられた。

●3節.「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。

ルカの福音書第6章
●20節.さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。貧しい人々は幸いである、神の国はあなたがたのものである。

天の国では「心の貧しい人々」は幸いなのです。それでは、心の貧しい人とはどのような人たちのことでしょうか。

ルカはただ「貧しい人々」と言っているのに、マタイは「心の貧しい人々」としています。

また、ルカは「あなたがたのものである」と言っているのに、マタイは「その人たちのものである」と言っています。

なお、この「心」と言うのは「霊」とも訳されています。霊が貧しい人と言うことでしょうか。

解説書によれば、マタイよりルカの方が本来のイエスの言葉に近いと書かれていました。

マタイの福音書はユダヤ人あてに書かれていますので、ユダヤ教(旧約聖書)の影響を強く受けていると思います。

ルカには「心の」(霊の、と解釈されています)という句が入っていませんが、わたしは入っていないのが本当のイエスの言葉でマタイがわざわざ「心の」という句を理由があり付け加えたと解釈するのが自然だと思います。

そして、ルカの「あなたがたのものである」と、マタイの「その人たちのものである」の違いは、これももともとの形はルカの「あなたがたのものである」と思います。

イエスは集まってきた群衆を相手に語りかけていますから「あなたがた」というのが正しいと思うのです。

マタイは、「あなたがた」を「その人たち」と言うような三人称に書き換えたので、目の前の群衆に語られたことになっていません。

マタイが一般的な祝福の言葉に変えたのでしょう。

イエスは、「貧しい人たちは幸いだ。神の国はあなたがたのものである」と語りかけておられます。

イエスの周りに集まった群衆には、神の前に誇ることができるものは何もなく、神の恩恵にすがる以外に拠り所がない貧しい人たちなのです。

このイエスが「貧しい人たち」と言われるのは、収入や資産、地位や名誉、さらに知識も乏しい貧しい生活をしている階層の人たちはもちろんのこと、それらを持っていても神との関わりにおいて、つまり、神の前での己の無力を知り、清貧を尊ぶ信仰深い人を意味すると思います。

なぜなら、人間の努力で霊的に貧しくなると言うようなことはできないと思うからです。

たとえ「貧しい」というのをへりくだる(高ぶりや欲望を捨てること)と解釈してもです。

イエスは神と人間の関わりを正すためにこの世に来られたからですから、マタイは「霊の=心の」と付け加えたのでしょう。

当時は病を持っていれば働くこともできないし、経済的に貧しければ律法を守ることもできなかったでしょう。

こうしたイエスの周りに集まってきた弱者であり被差別者である神の恩恵にしか拠るべきものがない群衆を「貧しい者」と呼ばれるのは自然の流れであると思います。

マタイはイエスの言葉に「心の」と言う言葉を付け加えることで、そのような弱者などだけではなくもっとひろく一般化したのでしょう。

現在においても、自分の地位や名誉や知識は自分の努力や能力が優れているからだと勘違いをして、それらは神から頂いた賜物と気付かずにいる恐れを知らない傲慢な人が沢山います。

そういう人たちは物事の真理が見えなくなっているのでしょう。

なお、「幸いである」というのは、神から与えられる祝福を意味すると思います。

そして、祝福は行いを必要としないと思います。神の祝福は無条件で与えられるものですからね。

ルカの福音書第6章
●24節.しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたはもう慰めを受けている。

ここの「富んでいる人」というのは、すでに「慰めを受けている」とありますから、すでにこの世の富を受け、その富で既に慰めを受けているということでしょう。

自分の経済力に、すなわち、この世の富に拠り頼み、神からの霊的な慰めなど目に入らない人間を指しているのだと思います。

逆に貧しい人は、今は不幸であっても、貧しいからこそこの世への執着もなく、神の国に入りやすいから幸いであるということでしょうか。

でも、すべての貧しい人は、神の国では当然に祝福されるのでしょうか。

当然ではなく、貧しくても神の前にへりくだって自分の罪を悔い改める人を「心の貧しい人」と言うのではないでしょうか。被造物としての己を知っている人ですね

貧しくても神を求める人でないと神の国に入れないのは当たり前です。

金持ちはお金を失う、権力者は権力を失うことを恐れます。競争している人は負けることを恐れます。だからそういう人は心が不安定です。

欲に目がくらむと神を見る心もどこかへ行ってしまいます。貧しい人は拠るべきは神の恩恵にすがることしか救われる道はないのですから神に近いといえます。だから幸いなのだと思います。

野望や欲望は神の前では意味を持たないのですね。

今まで大事に思っていたこの世で生きるのに必要なものは、神の国ではかえって邪魔になってくるのです。

わたしもそれら世の富と言うものをすべて捨ててしまえばどれだけすっきりするだろうと思うことがあります。

しかし、この世に生きている限りそれはなかなかできない相談です。だから、せめて強く執着することだけはやめなければと思うのです。

何を捨てるかでなく、何を優先するかということでしょう。

わたしも、50歳を超えた時、キリストを知り、物とか権力とか名誉に執着する心が薄れると同時に、人間の弱さが身に染みるほどわかるようになりました。

一生懸命に生きている人々を見ると、いとおしく思うようになりました。

すると気持ちが楽になって、身も心も軽くなるから不思議です。

人生とは不思議ですね。お金がたくさんあれば幸せになれると思っていても、いざ、なって見ればそれを守るために、あるいはもっとほしくなり心が騒ぎ不幸になったりします。

人間何が幸か不幸か分かりません。

第一いくらお金をためても来世に持っていけないし、来世では祝福されませんからね。

でもね、高齢になりお金があっても仕方がないと思っても、なかなか人間手放せないものです。いや、逆に年を取り高齢になってお金がなければこれほどみじめなことはありません。それが現実です。

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