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2017年10月 8日 (日)

地の塩・世の光(マタイ5章)

マタイの福音書第5章13~16節/マルコの福音書第9章49節・50節/ルカの福音書第14章34節・35節です。マタイの福音書に沿って読んでいきたいと思います。

マタイの福音書第5章

●13節.あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。

本節の「塩」というのは弟子のことなのでしょう。マタイでは塩が弟子を指すことが初めから明らかにされていますから、「塩が塩気をなくす」というのは、弟子がイエスの弟子である性質をなくすことを意味しているのでしょう。

塩の性質はいろいろとあります。ひとつは何といっても料理の味付けにはなくてはならないものです。

もうひとつは、防腐剤の役割、そして、仏教などでも重宝されていますが、神へお供え物を捧げるときに、塩をもって清める、つまり、清めの役目ですね。

さて、塩は味付けになくてならないものですが、塩気が抜けてしまって役立たなくなってしまえばどうやってその塩味をとり戻すことができるのでしょうか。

塩味を取り戻すことはできませんから、役に立たない塩は捨てられるだけです。

そういう意味でイエスはこのたとえを語られたのでしょう。

イエスは、そういう事態になれば「外に投げ捨て」られる、と厳しく忠告し、イエスの弟子になることの覚悟を求めておられるのでしょう。

それでは、この場合の失ってはいけない塩味とはどのような味なのでしょうか。

それは、本5章で述べられている「山上の説教」、つまり、イエスの新しい教えを実行することを指していると思います。

この教えを守らない者は、塩気をなくした塩のように何の役にも立たず、捨てられるだけだと警告していると思います。

マルコの福音書第9章49節は「人は皆、火で塩味を付けられる。」とありますから、この火は清めの火で、人は火で清められて塩味をつけられるということでしょう。

そして、「火」は清めを指すのですが、清めて塩味をつけるのは聖霊の仕事です。

イエスは、神を信じて(イエスの言葉を信じて)聖霊を受けなさい、そうすれば神に受け入れられ救われると言っておられます。

そして、マルコは「人は皆」と言っていますから、すべての人が塩で味付けされなくてはならないと言うことでしょう。

そうです、過去・現在・未来の全人類が一人残らず救われなければならないのです。

マタイやルカの記事は、「あなたがた」と言うことですから、「弟子たち」に語ったことになっていますが、この「人は皆」とあるマルコの書き方が正しいと思います。

また、マルコの福音書第9章50節には、塩気がなくならないように「自分自身の内に塩を持ちなさい」となっていますが、これは、その前の9章43節から48節の「もし片方の手があなたをつまずかせるなら切り捨ててしまいなさい。

両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。………」(意味としては、五体満足で地獄に堕ちるよりも、五体不満足で神の国に入るほうがずっといい)に関連して考えると、このような地獄の火を語るイエスの厳しい言葉に続けてこの塩のたとえを置いているので、裁きの日には、人間はみな「火による審判」をくぐらなければならない(コリントの信徒への手紙第一 3章13~15節参照)のですから、火による審判に耐えて命にあずかるためには、片手、片足、片目を、つまり、神の言葉を守ることをつまずかせるものは切り捨てる覚悟をもって生きなければならないということでしょう。

このように、マルコの福音書は塩を聖霊のことだと解釈すると意味がよくわかると思います。

本当の塩は、食物に味をつけ、腐敗を防ぐのに有効なものであるように、聖霊は人間の腐敗を防ぎ、神の命と栄光にあずからせる神の働きということでしょう。

しかし、もし聖霊の働きがなくなったら、 人間の意志や努力ではどうしょうもなく、人間の腐敗も止めることはできないでしょう。とめどもなく腐るだけです。

つまり、この人間の世界は2000年前にキリストが来られてなかったら、自分たちの本当の姿もわからず(わたしたちは、どこからきてどこへ行くのか、今生きているのにどのような意味があるのか)、救いのない、希望の光もない暗闇の世界だと言うことです。悪魔が支配するやりたい放題の世界です。報いのない正義のない世界です。

キリストがこられ、来世に希望が持てるから、わたしたちはこの世を信仰と希望と愛をもって、心やすらかに生きることができるのです。

だから、「自分自身の内に塩を持つ」こと、すなわち、内に聖霊を宿し、自己を聖霊の働きに明け渡し、聖霊の働きに委ねることがもっとも大切なことになるということだと思います。

そのような生き方は、本来は一人ひとりの責任ですが、聖霊は隣人を愛しあい互いに平和に過ごす交わりの中にも働かれるので、そういう交わりを持つのも聖霊の助けを借りるのに重要なことだと思います。

このようにマルコの福音書は、塩が聖霊の象徴として用いられていると思いますので、塩味を失った塩が外に投げ捨てられるという表現はありません。

ルカの福音書14章34節の「塩気を失った塩」というのは、前節33節に「だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」とありますから、自分の命をも含めて、自分の一切を捨ててイエスに従う覚悟のない弟子を指すことになると思います。

この「塩気を失った塩」というのは、イエスをキリストと言い表しイエスの弟子のように、つまり、クリスチャンであるように振る舞いながら、自分に都合のよい範囲内でしかイエスに従っていない人をさすと思うのですが、そのような人は、結局自分のことを求めているだけで自分を捨ててイエスに従う者ではないといわれているのだと思います。

そのような弟子は塩気を失った塩で、現在進められている人類救済の神のみ業ために何の役にも立たず、神の支配の外に投げ捨てられるだけだと言っているのでしょう。

イエスの道は十字架の道、茨の道です。イエスに従おうとする弟子は、イエスと共に十字架の道を歩む覚悟が求められておるのでしょう。

なまぬるい平和な日本で偉そうなことを言っていても、世界を見渡せばキリスト者に厳しい国が多くあります。そのような国においても信仰を守れるのかと、問われているように思います。

こうして、イエスの言葉を解釈していると、時々恐ろしくなります。不安になります。わたしには到底できないと後ずさりしたくなります。

でもね、思うのです。キリストはそのような弱いわたしのために死んでくださった。

どんなに未熟で弱い人間でも、イエスから目を離さないで、イエスと共に歩もうと、聖霊の導きに従おうとしている限り、見捨てられないと信じ、その慈愛にすがりたいと思います。

●14節.あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。

「あなた方は世の光である」のあなた方は弟子のことを指しているのは明らかですが、「世の光」を考える前に、関係があると思えるマルコの福音書4章21節・22節の「ともし火」のたとえ話について考えてみたいと思います。

イエスは、「また、イエスは言われた。「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか。」(21節)。「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない。」と言われていますので、

このたとえは、イエス自身のことをたとえ話で語っておられるのだと思います。

イエスは、罪に沈む人類を神の国に導くために、救いに来られましたので、そういう、イエスご自身のことを「ともし火」とか「世の光」などにたとえられました。

イエスは世の光りであることは、ヨハネの福音書第12章46節でも、イエスは「わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。」また、同8章12節で「わたしは世の光である。」と言われています。

●15節.また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。

●16節.そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」

16節は、イエスが「山上の説教」で述べられた新しい教えを実行することを指していると見られます。この教えを行わない者は、塩気をなくした塩のように何の役にも立たず、捨てられるだけだと警告しています。

この15節と16節は、イエスが世の光であるようにそのイエスを体現する弟子も世の光だと言っています。

イエスは「世の光」としてこの世に来られ、その光を隠すことなく身を挺して(十字架に至るまで)光を世に輝かされましたが、これからは弟子が「世の光」として、イエスの教えやなされた業を継承していきます。

もちろん、この弟子と言うのは、当時イエスの周りにいた弟子のみならず、現在までにイエスの言葉を信じた者すべてを指すと思います。

イエスは、ともし火を枡や寝台の下に置かず燭台の上に置くように、弟子たちは「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」と求められています。

そこで、わたしはイエスのことを「世の光」と言いましたが、言い換えると、それは父なる神の栄光ともいえます。

マタイの福音書第5章16節に「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」とありますので、まさに、神の子としての生き方です。

イエスが父と呼んで親しく交わられた神を、弟子も自分の父として生きるのを求めているのでしょう。

このことを、今を生きるわたしたちに置き換えると、わたしたちは歴史に残るような偉大な人物でなくても、自分の置かれた場でイエスの言葉に生きるならば、それは世の光となりささやかながらこの世界の隅を照らす光となる、ということでしょうか。

それが今を生きるクリスチャンの使命だと思います。

もちろん、その生きざまは、人間の努力でうんぬんできるものではなく、神の御霊、聖霊の働きによるということだと思います。御霊の働かれる場に光は輝くのですからね。

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