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2017年10月19日 (木)

律法について(マタイ5章)

マタイの福音書第5章17~20節/同11章12~13節/ルカの福音書第16章16~17節。マタイの福音書に沿って読んでいきたいと思います。

マタイの福音書第11章

●12節.彼が活動し始めたときから今に至るまで、天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている。

この個所はどのように理解すればよいのでしょうか。

わたしは思うのですが、おそらく「彼」とは洗礼者ヨハネのことで(イエスならマタイを彼とは言わない)、「天の国」とは神の支配する神の民の群れとすれば、洗礼者ヨハネが活動を始めてから「今に至るまで」ですから、この福音書の著者マタイの時代までイスラエルは洗礼者ヨハネに対してもイエスに対しても敵対的で迫害、殺害し神の支配を妨げてきたということでしょうか。

また、「襲われており」というのは、イエスの言葉を信じる者の集まりを、おそらくサタンに支配されたイスラエルが襲ってきてその群れを暴力的に奪い取ろうとしている、ということでしょう。

イスラエルは洗礼者ヨハネおよびイエスに対したことと同じように、イエスの弟子たちに対しても敵対的で、迫害をもって神の支配を妨げてきたということではないでしょうか。

サタンがイスラエルの支配者層を用いてイエスの言葉を信じる者の集まりを迫害したということです。

まだこの時は、イエスの言葉を信じる者の集まりであって、今のような制度的な教会はありません。

●同13節.すべての預言者と律法が預言したのは、ヨハネの時までである。

ここは「預言者と律法」の時代(旧約聖書の時代)は、洗礼者ヨハネの時までで、イスラエルに新しい時代の到来を告げる動きはその洗礼者ヨハネの時から始まったということでしょう。

続いてこられたイエスによって全く新しい事態、神の支配が告知されたのです。

イエスが来られたのは、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」(17節)とイエス自身が言っておられます。

この完成すると言うのは、成就する、つまりイエスの十字架死に合わせられて古い自分が死に、イエスの復活に合わせられて新しい命に生きる。

すなわち、神の御霊の働きに自己を委ねて生きることにより成就するということだと思います。御霊は個人に宿られますので、「新しい命に生きる」のは、あくまでも個人の問題だということです。

マタイの福音書第5章

●17節.「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。

このように、マタイはイエスの生涯の出来事が旧約聖書の預言(律法を含み)の成就であるととらえて、イエスの教えはモーセ律法を不要または無効にするものではないとします。

マタイはイスラエル人あてにこの福音書を書いていますから、当然そのようになると思います。

律法や預言者を廃止すればイスラエル人の過去何千年の歴史はいったい何だったのだろうかということになります。

なお、ここで律法とはユダヤ人が「トーラー」と呼んで神の啓示として尊ぶモーセ五書を指し、「預言者」とはイスラエルの歴史の中で神の霊感を受けて民に語った預言者たちの諸書、すなわちヨシュア記から列王記までの「前の預言者」と、イザヤ、エレミヤ、エゼキエル、十二預言者の「後の預言者」の諸書を指していると思います。

それでは、ルカの福音書の並行個所16章16節の「・・だれもが力ずくでそこに入ろうとしている。」と言うのはどういうことでしょうか。

誰もがですから、イスラエル人も異邦の民も、つまり、キリスト教の世界宣教により異邦の諸民族(イスラエル人以外)もイスラエル人もキリストの民の中に入ってきているということでしょうから、これは異邦の諸民族のキリストの民に対する迫害を指すと思うのですがいかがでしょうか。

●同18節.はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。

「はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。」の意味するところは、旧約聖書で預言されている終末に起こる出来事は確かに起こることだと言っているのだと思います。やはり、イスラエルの信者への配慮が見られます。

もちろん、イエスはモーセ律法が神の言葉であることをも保証していることにもなります。

●同19節.だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。

しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。

この19節でイエスは、「それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。」と言われましたが、イエスは本当にわたしたちにはとても守れそうにないモーセ律法の規定を細部に至るまで全部文字通りに遵守するように求められたのでしょうか。

それとも、マタイが律法を軽く見る異邦人信徒への戒めとしてイエスの言葉を借りて求めたのでしょうか。

イエスが、そのようなことを求めておられないことは、マタイの福音書全体を一読すれば明かです。

ただし、この律法は、福音書全体から見れば、旧約聖書の古い律法(モーセ律法)というより、古い律法を完成する形で定められた、イエスの新しい律法のことを指していると思います。

●同20節.言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」

19節の律法の答えはこの20節にあると思います。

「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」、すなわち、律法学者やファリサイ派が主張しているような律法の守り方、すなわち義の基準ではイエスが宣べ伝えられた天の国に入ることはできない。

天の国に入るための義は、律法学者やファリサイ派の義にまさるものでなければならない、と言っておられるのだと思います。

では、天の国に入る者、神の支配の現実に生きる者の義が、律法学者やファリサイ派の義に「まさる」とは具体的にどういうことでしょうか。

イエスは、まず「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は……と命じられている」という形で、ファリサイ派が代表するユダヤ教の旧い義の規準が提示され、それと対立する形で「しかし、わたしはあなたがたに言う」という言葉でイエスの弟子に求められる新しい「義」の規準が提示されました。

それは勿論、イエスの新しい律法「山上の説教」です。

ルカの福音書24章27節には、二人の弟子がエマオへ帰る途中で、彼らに復活のイエスが顕われた記事がでています。

その時にイエスは、「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、ご自分について書かれていることを説明された。」と言われました。

この「証明された」はイエスの復活を指し、旧約聖書の律法全体が、約2000年前に十字架に架けられて復活されたイエスという「一人の人格」の姿として体現されていることを語っていると思うのです。

だから、復活のイエスの御霊、聖霊を宿す者は、その御霊の働きにより旧約聖書の律法全体がその人の中である意味成就したと言えると思うのです。

その御霊の働きの中で歩む者は、外から強制されるのではなく、また人に自分の正しい行ないについて、いちいち教えてもらうのではなく、自分自身の内側で働かれる御霊の導きによって新しい律法はその人の中で成就すると言うことだと思います。

内に御霊を宿すその人は、意識せずして真の律法が成就していると言えるのではないでしょうか。


イエスは新しい律法である山上の説教の締めくくりとして、マタイの福音書5章48節で、「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者になりなさい。」と言っておられますが、それがその意味だと思います。

また、このような見方もあります。

旧約聖書の律法は行いの戒めですが、愛の姿を教えているという見方です。だから、隣人愛を成就することは律法を成就したことになるのです。

それは次のイエスの言葉により明らかです。

マタイの福音書22章37節から40節「イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」です。

そうそう、律法を成就すると言うことは、動物の犠牲を贖罪の供え物として神殿でささげる「祭儀律法」をも成就したことになります。

なぜなら、イエスがこの世に来られて、全人類の罪の贖いとして、ご自分を神への贖罪の供え物としてお献げになった。

このことによって、もはや動物の犠牲は要らなくなったということになります。これ以上の贖いはないから旧約聖書の贖罪の律法は「成就された」ということです。

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