断食するときには(マタイ6章)
今回はマタイの福音書第6章第16節~18節です。共観福音書に並行個所はありません。
●16節.「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。
投稿文「施しをする時と祈る時は」にも書きましたが、イエスはここでも偽善者をたとえにして、弟子たちが断食することを前提にして、断食の仕方について勧告されています。
しかし、マルコの福音書第2章18節から22節「断食についての問答」では、弟子たちはもはや断食をしないとされ、断食しない理由が問題になっているのにどういうことでしょうか。
調べてみますと、この違いは福音書成立の事情にあるのではという意見でした。
マルコの福音書は紀元七〇年のエルサレム神殿崩壊の少し前に成立したと考えられています。
この時期は、ユダヤ人以外の異邦人を多く含むキリスト共同体はすでにユダヤ教から独立し、独自の信仰生活を形づくっていました。
したがって、ユダヤ人キリスト者の律法を守らなくてはという意識が無くなり、律法の教えである断食は問題にならならなくなっていたのでしょう。
それに対してマタイの福音書は、ユダヤ人が中心に形成する共同体で、ユダヤ人の信仰運動の中で成立し、ユダヤ人信徒に語りかけるために作成されましたので、ユダヤ人として、敬虔な心の現れとしての行いの代表的な断食も当然行うべきことだとしていたのでしょう。
そのうえで、このマタイの福音書では、その方法がイエスの弟子たちとユダヤ教団とは違うことを強調したのではないのでしょうか。
マルコの福音書2の19では「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいる限り断食できない。」とあり、花婿はイエスを指し、婚礼の客は信徒を指しますから、イエスがそばにおられるときは断食の必要はないということでしょう。
ユダヤ教はイエスを神の子と認めていないので、そのようなことにはならないのでしょう。
●17節.あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。
断食をするときには「頭に油をつけ、顔を洗いなさい」と言うことは、これらのことは普段の生活で行っている普通のことですから、断食もそのようにしなさいと言うことでしょう。
断食も特別なことではなく日常していることと同じように普通に断食をしなさいと言うことでしょう。
要するに、断食は人に見せたり言いふらしたりしてするものではないと言うことでしょう。信仰とはそういうものだということでしょう。
これも、先の施しや祈りと同じく、断食が隠れたところでなされることによって、「隠れたことを見ておられる父が報いてくださる」ようになるためであると言うことになります。
●18節.それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」
断食は食事(自己の欲望)を断つので、自己否定(神に意識を集中する)の象徴としての意味を持つと聞きます。
もし断食が自己否定の表現であるならば、断食をしているときに「顔を見苦しくする」(16節)行為は自己を否定ではなく自己を顕示することになりますので、ひいては神の前に自分の価値や功績を主張することになります。
こうなると、それは見世物となり、自己否定の現れである断食とはまったく反対のことをしていることになります。
しかし、人間が自己否定をできるのでしょうか。断食と言う苦行を持って自己否定するとなると、ちょっと、イエスの教えから離れるような気がするのですがいかがでしょう。これは調べてみる必要があります。
マルコ福音書第2章19節~20節にイエスの断食についての言葉があります。イエスは、弟子たちが断食しない理由を婚礼の譬を用いて語っておられます。
聖句は、「イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる」。
「花婿が奪い取られる」というのは、花婿はイエスを指しますから、イエスが暴力的に奪い取られるということだと思います。
すなわちイエスの十字架の死を指しているのでしょう。
この聖句は、イエスが地上で一緒におられたときには弟子たちは断食しなかったが、イエスが死なれた後では断食するようになると解釈されているようですが、なぜ、断食をすることがイエスの生前と死後で分かれるのでしょうか。
地上のイエスと復活したイエスに違いは無いと思いますので、ここの自己否定の断食は断食そのものを指しているのではないと思うのです。
それでは、「花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる」。とはどういうことでしょうか。
イエスの言葉を信じる者は、イエスの十字架死に合わせられて古い自己に死にイエスの復活に合わせられて新しい命に生きると教えています。
この、古い自己に死に新しい命に生きると言うのが、断食の意味である自己否定を実現していると言えないでしょうか。
もちろん、新しい命は人間の営みではなく聖霊によってもたらされます。
キリストを受け入れれば、その人に聖霊が内住されますので、その人には、誰にも分からない「隠された形で」自己否定が実現しているのです。そう、本来の断食をしていることになります。考えすぎでしょうか。
そうすると、そういう秘義が実現することにより、秘儀にあやかった者は「隠れたことを見ておられる父が」聖霊という賜物を与えて「報いてくださる」と言うことになります。
マタイの場合のように断食することを前提にしていても、マルコのように断食しないことを前提にしている場合と同じく、「隠されたところでなされる断食」は十字架のキリストに合わせられて自己が死ぬという以外には実現しないということになります。難しくなってきました。
マタイの福音書第9章14節~17節(断食についての問答)の個所ですが、この個所は、マルコの福音書の並行個所(マルコの福音書第2章18節から22節)をほぼそのまま用いていますが、違うところが一か所あります。
それはマルコの福音書が「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。そのとき、彼らは断食することになる」
マタイの福音書は「・・婚礼の客は悲しむことができようか。しかし、・・。」と変えています。
イエスは断食を否定していますので、マタイの福音書はユダヤ人信徒宛てにかかれていますからそのままではユダヤ人は断食の習慣があるので都合が悪いと思ったので、マルコが「断食できる」と書いているところを、「悲しむ」と変えたのでしょうか。
それでは、「しかし、花婿が奪い取られる時が来る。そのとき、彼らは断食することになる」の断食の意味は、先に書いたようにイエスの言葉を信じたものはイエスの死に合わせられて古い命に死にイエスの復活に合わせられて新しい命に生きるのですから、古い自己を否定することの象徴として断食という言葉を使っているのだと思います。
従って、マタイの福音書はイエスの弟子が断食することを当然とした上で、「偽善者」の断食との違いを強調しています。
「偽善者」の断食の目的は、自分が断食しているところを人に見せて、社会で敬虔な者と認められ、誉を受けたいから行うのですからね。
わたしも、偽善者のような信仰にならないように気をつけねばと思います。
信仰とは、人に見せるものではなく、人に見えるものでもなく、神にしか見えないもので、また、神にだけ見えればそれで良いのです。他人に自慢するものでも、見せびらかすものでもないのです。自己満足の道具でもないのです。
わたしは以前人の信仰が気になりました。でも、分かったのです。信仰が目に見えないものならば、人の信仰を気にするということは人の目に見える部分だけを見て、その人の信仰を気にしていることになります。
だから、人の信仰は気にしないで、自分の信仰のみを気にしていればよいと思ったのです。
それに、信仰は人間の努力でなされるものでなく、賜物であり、御霊の働きによるのですから、人と比べるものではなく、努力して得られるものではなく、誇ったり卑下したりするものでもないのです。
ましてや、人の信仰を裁くなんて恐れ多いことだと思いました。裁かれるのは神です。自立した信仰が大切ですね。
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