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2017年10月 3日 (火)

山上の説教(3)(マタイ5章)

今回はマタイの福音書第5章7節と8節を読みます。

●7節.憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。

このみ言葉は「憐れみ深い」という言葉がキーポイントでしょう。

それでは、「幸いである」というのはどういうことでしょう。

憐れみ深い人々が幸いであるのは、その人たちは「憐れみを受ける」ようになるということですから、このみ言葉は未来形の動詞(憐れまれるであろう)です。

憐れみを受けるその未来というのは、やはり、終わりの日の裁きの場において神の憐れみを受けるようになることを指していると思います。

ルカの福音書第6章20節から26節の「幸いの言葉」には、この御言葉はありません。

ルカは、6章36節に同じようなみ言葉を置いています。

「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」です。

この御言葉をよく読むとマタイの福音書第5章7節のみ言葉と同じ内容だと思います。

違うのは、ルカでは、父が憐れみ深い方であると言うのが先に来ていて、あなたがたも憐れみ深い者となるように勧めているということです。

一方マタイは、まず弟子たちに憐れみ深くあることを求め、そうすれば神から憐れみを受けるようになると約束しています。

同じ「憐れみ」という内容を扱っていながら、どうしてこのように逆の流れになるのでしょうか。

やはりマタイは旧約聖書の教えを強く受けているのでしょうか。

旧約聖書の律法のように、ある意味救いには行いが前面に出ていますからね。

ルカの方が事実に忠実であることを考えると、マタイのみ言葉はルカのみ言葉を変形したものととらえたいと思います。

ルカの「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」という言葉が真実に近いと考えます。

したがって、神の恩恵があって初めて人間は、己の能力とか努力でできないことでも出来るようになるということでしょう。

モーセ律法は人間の努力で神の律法を守ることを求めましたが、イエスは神の恩恵によりより厳しい新しい律法を成就することを求めるのです。

神の恩恵を受けるためには神の言葉を受け入れて心にとどめる必要があるのですが、パウロの言う信仰により救われるという見方もここから出ているのでしょう。

神は人間を資格や価値を問わないで無条件に受け入れ愛しておられるように、あなたがたも父と同じ慈愛をもって、相手の資格や価値を問わないで、無条件に受け入れて愛しなさい、それが、たとえ敵であっても(自分に不利益を及ぼすものであっても)愛しなさい、と求めているのでしょう。

このように、新しい律法は、人間の常識的なモラルをはるかに超える高い要求で、まさしく神の子イエスに倣う、そのレベルの慈愛に生きることを人間に求めているのです。

マタイも神の慈愛が先行していることを十分承知していると思います。

その上で、受けた慈愛と同じ慈愛で生きることをしなければ、神の恩恵の場にとどまることはできないのだと言っていると思うのです。

イエスがもたらした新しい律法の成就には、人が神の恩恵の場、つまり神の支配の場に入らなければならないのです。

神の御霊の働きは、人間に神の絶対・無条件の慈愛を教え、人間にそのような絶対・無条件の慈愛に生きられないことを気づかせて罪を悟らせる役目をするのでしょう。

そして、自己の誇りが打ち砕かれることになるのです。

そうすれば、神の恩恵によらなければ救いはないことに気づくはずだということが前提にあると思うのです。

イエスは父なる神の恩恵を宣べ伝え、すべての人を恩恵の場に入るように招いておられます。

それは、父の憐れみを受けて、すべての人が憐れみ深い者となり、そのことによって神の憐れみが地上の現実となり、この地上に「神の支配」が完全に実現するように、歴史を生きる人間に向かって呼びかけておられるのだと思います。

●8節.心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。

このみ言葉は、マタイ独自のものです。

この聖句は、実際にイエスが語られたかは不明です。でも、マタイはイエスの教えの真意を汲みこのみ言葉を残したのだと思います。

ここで「心の清い人々」というのは、神に対して二心を抱かないことということでしょう。聖書の神は浮気とか二股をかけるのは好まれません。ずるい人はダメなのです。

常にわたしだけを愛しなさいと言われています。ルカの福音書で「神の前に正しい」と書かれているのと同じでしょう。

また、「神を見る」とありますが、これはなにも「知識」で神を見ることを目指すのではなく、イエスの父なる神を求めイエスの御霊と共に歩む中で神に接するということでしょう。

神の前に「清くあること」はユダヤ教の目標でもあり、それがなければ、他に何があっても神の民に所属することはできないというのが、ユダヤ教だと思います。

「清くあること」は神の民としてもっとも基本的な資格であります。

だから、ユダヤ教の祭司たちは、神に受け入れられる清いものと、神に受け入れられない汚れたものを区別し、イスラエルの民に汚れたものに接して汚れた者にならないように、いつも清い者であるように教えました。

そして、罪を犯した(律法違反)ときには、その罪を清めるために、また、罪によって汚された聖所を清めるために、犠牲の動物の血による「贖いの儀式」があるということでしょう。

これに対し、イエスは汚れにつき次のように言っておられます。

「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである」(マルコの福音書第7章15節)。

また同7章18節では、「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか。すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。

それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる」。

更にイエスはマルコの福音書第7章20節から23節で「人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである」と言われました。

イエスのこの言葉は、モーセ律法に定められている「清いものと汚れたものの区別」の定めが廃棄されて、神に憎まれる汚れとは、心の中から出て来るものだという新しい教えに変わったことになります。ユダヤ教徒の拠り所が無くなってしまいました。

「清いものと汚れたものの区別」は、もはや律法に定められた清めの儀式をどれだけ完全に行うかとは関係なく、心の中の問題とされているのです。

したがって、動物の生贄をささげるというような清めの儀式も不要になったのです。

どうすれば心の中が清くなるかは、神を信じて聖霊に内住していただき清めてもらいなさいと言うことでしょう。

さらにイエスは、マタイの福音書23章27節で、ファリサイ派に代表されるユダヤ教の「清さ」を、外側だけを清めて、内側は汚れで満ちている墓にたとえて、厳しく批判されています。

つまり、「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている」と言われたとおりです。

それでは「神を見る」とはどういうことでしょうか。

地上の人間は神そのものを見ることはできません。

ユダヤ教では、神は見えない方として天の高みにおられ、民の中に内住されるとしても、それは贖罪の祭儀が行われる神殿の中の、誰も見ることを許されない至聖所だけに臨在される神なのです。

ということは、至聖所の入ることのできる大祭司だけが神に会える特権を持っているということです。

もし人が神を見ることがあるとすれば、聖書では、神が救済の業を完成し、その栄光を現される終わりの日のことになると思います。

その日には、神と人との交わりを妨げたるものはなく、人は「顔と顔とを合わせて神を見る」ことになります。

パウロもコリント信徒への手紙第一13章12節で「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。

だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。」と言っています。

マタイの福音書第5章節の終末(終わりの日)において実現する「地を受け継ぐ」のと同じですね。

こうして見ると、「幸いの言葉」全体は終わりの日に受ける神の約束の祝福の言葉と言うことになります。

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