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2017年10月11日 (水)

誓ってはならない(マタイ5章)

マタイの福音書第5章33~37節です。この個所も他の福音書に並行個所はありません。

●33節.「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。

●34節.しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。

●35節.地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。

●36節.また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。

●37節.あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」

イエスは言われました。何に対しても一切誓ってはならないと。わたしたちは日常よく誓います。

誓いは約束したことの信頼を得るのに用いますが、社会生活でのいろいろな誓い(約束事も)もいけなのであれば日常生活は成り立ちません。そうでしょう。誓いというか約束を守らなければ事業も政治も裁判も成り立ちません。

誓う相手が誰であっても誓いは果たさなければならないのは当然のこと。

自分自身に誓う場合は罪にはなりませんが、他者との誓いならば守らなくてはなりません。

ましてや、当時のイスラエルは宗教国家ですから、神に誓った場合はそれこそ命をかけて守らなければならない。果たさなければ罪になります。

しかし、イエスは守るか守らないかにかかわらず誓ってはならないと言われたのです。

それは、人間は被造物で、人間は全能ではないのですから絶対ということはありません。

誓っても守ることに責任は持てないからでしょう。この聖句は、おそらく、弟子たちに言われた言葉だと思います。

したがって、ここの誓いはおそらく神に対して誓ってはならないということではないでしょうか。

天とか地とか頭にかけて誓ってはならないのですから、それらは神を指しています。

しかし、弟子たちは、神の御霊を宿し、神の御前で語る人です。このような人は自己を神の御霊の導きに委ねて生きて、語っているはずだから、いかなる場合でも真実を語るのですから、誓う必要がないとも言えます。

イエスの言葉を信じていない人、つまり、御霊を宿していない人は誓いの言葉も必要でしょうが、イエスの言葉を信じている者同士の間においては、御霊に導かれての約束ですからこれほど信頼のおける約束はないのですから、誓はいらないということだということでしょう。

37節では、何事に対しても『然り、然り』『否、否』と言いなさいと書かれています。

この37節の言葉は、クリスチャンは、聖霊を内に宿しその人の潜在意識を支配しているのですから、その聖霊に導かれて、つまり、御霊の導きに合致すると思われるときは、「はい」とはっきりと言い、御霊の導きに合致しないと思われる時は、「いいえ」とはっきり言 いなさい。人の前でも御霊に導かれるままに語りなさいということでしょう。

もちろん、語るのは聖霊ですから聖霊により語らしめられるということになります。

36節の「髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。」と言われているのですが、それはそれほどわたしたちは無力な存在だと言っておられるのでしょう。

そのような無力な存在が、創造主である全能の神に誓うなど思い上がりもはなはだしい。

何を誓っても、わたしたちには未来のことはわかりません。今日このような約束したけれども、明日には何か事情ができて守れないかもしれない。

わたしたちの人生のその時その時は、自分の知識で最善の選択をしたつもりでも、また、自分の力で何事も何とかなると思っていても、よく考えれば最終的に神はそれらを用いてご計画に沿うように働かれるので、神の御手の中で歩んでいることになります。

明日がはたしてどうなるか? これは誰にも分からない。だからどのような場合でも、自分は生かされているのだということをよく自覚して、「御心のままに」という気持ちで生きることが大切なのでしょう。

しかし、よく考えれば、御霊にあって生きるといいましても、御霊の導き、いわゆる潜在意識の導きだと思うのですが、それを絶対と信じると危険だと思うのです。

その導きが、自分の欲から出た意識であるかもしれないし、悪魔のささやきであるかも知れないからです。その見分けはたいへんむつかしいと思います。

だから、その時その時、誠実に、正直に、良心に従って与えられたままを語り、結果は御心に委ねるということを忘れずにしたいと思います。

そうすれば、もし、間違っていても御霊はわたしを正してくださるし、取り返しのつかないようなことにならないようにしてくださると信じます。

33節の「偽りの誓いを立てるな」というのは、旧約聖書レビ記19章21節の「わたしの名を用いて 偽り誓ってはならない。それによってあなたの神の名を汚してはならない。

わたしは主である」を指すのだと思います。神の名を唱えて内容のない誓いを乱用することを禁止する戒めと解釈したいと思います。

ですから、この場合は神にかけて誓うことを指していて、「主に対して誓ったことは、必ず果たせ」というのは、神への誓いは誠実に必ず守るべきものであることを求めているのでしょう。

34節と35節の「天にかけて」とか「地にかけて」とか「エルサレムにかけて」誓うというのは、結局天地万物はそれらを創造した神のものだから神の名を用いて誓うことと同じだといわれているのでしょう。

天は神の玉座であり、地は神の足台であり、エルサレムは神の都です。

そのような誓い方も人間が語る言葉を保証するために神を利用しているのと変わらないと言っておられるのでしょう(マタイの福音書23章21節から22節)。

このように、イエスは「神の名」による誓いを全面的に否定されるのは、神を信じる信仰が空疎なものにならないように、つまり、イスラエル社会で誓いというのは、人間の言葉の真実を保証するために「神の名」によって神を引き合いに出して誓うことが日常であったからでしょう。

本来、人間の言葉に絶対無条件に真実なものはないと思います。誓いを立てた時は、その人は真実誓ったのでしょうが、立場とか状況が変われば考えも変わります。

このように、人間の誓いというものは相対的なものにすぎないことは、わたしたちは日々実感するものです。

そのようないい加減な誓いを神の名によって保証した場合、神の真実が人間の相対的な真実の水準にまで引き下げられることになり、神の名が汚される結果になる。

だから、御霊によって生きる者にはイエスは一切の誓いを否定されたのでしょう。

一切の誓いですから、守らなければならない大切な言葉とそうである必要のない言葉の区別もされていないのです。ただ神の名による誓いを否定されたのでしょう。

36節の聖句をみると、わたしたちの日常に語るどのような言葉でも、終わりの日の裁きの時には裁きの対象になるのです。

これは、不用意にしゃべった言葉が自己と他者に対し良くない影響を及ぼすことが多いからだと思います。それは、新しい人間の創造に悪影響を及ぼすからではないでしょうか。

といっても、人はどのような場合に語られる小さい言葉にも、神の前に責任を取らなければならないのです。神の前ではどの言葉も無条件に真実でなければならないのです。

この世に生きるわたしたちにとっては、神の国とは何と厳しい世界でしょう。

逆にいえば、神の前ではすべてが明らかになり何も隠すこともできないということになります。

わたしたちは普段の社会生活で交わす言葉がどのような影響を人に与えるのかも考えずに実に軽くいい加減に(無責任に)使っています。

わたしたちが語る言葉の結果が、神の前に裁かれることを自覚するならば、どのような小さい言葉にも自分の存在をかけた重い責任が伴うということが自覚されます。

先に書いた、37節の.「あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者(悪に誘う力)から出るのである。」はその実践例ということでしょうか。

わたしたちはいい加減な言葉にだんだんと馴れて無感覚になり、発した言葉がどれほど他者にあるいは自分に対しどれほど悪い影響を及ぼしているのか、わたしたちはそれに対し、責任を感じることはほとんどありません。

人を非難ばかりしているとか文句ばかりいている人がおられますが、そのようなことをしていると自分の心も歪んでしまします。

最後に、イエスが「いっさい誓うな」と言われるのは、このような社会生活の中での誓いを否定されたのではなく、やはりここの解釈は、イスラエルという宗教社会という独特の背景を考える必要があると思うのです。

当時のイスラエルの宗教指導者たちには、神の名を乱用して誓い、語る言葉に責任を取らない習慣、すなわち、神の名によって誓う言葉が空虚なものになっていたのです。

イエスは当時の宗教指導者らを偽善者といわれて叱責されました。

わたしたちが社会生活の中で行う誓約とか約束は、何も神の名を用いて誓うのではなく、自分自身の信用を担保に自分の言葉で誓うのですから、イエスが否定された誓いとは次元が違うと思うのです。

この箇所は、本来、神の前にあるべきわたしたちの姿を語っておられるのだと思います。

そして、この世においては、御霊により生きることを求めておられるのだと思います。

イエスができないことを求められる様なことはありません。できないことを求められる場合は、必ず神の霊、御霊と共であればできるということだと思います。

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