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2017年10月 3日 (火)

山上の説教(4)(マタイ5章)

今回はマタイの福音書5章9節から12節を読みます。

●9節「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」。

この9節はマタイの福音書にしかありません。

「平和」というと、ユダヤ人がよく使うシャロームと言う挨拶の言葉が浮かびます。

ユダヤ人は会ったときも別れるときも、挨拶の言葉として相手にシャロームと言って挨拶をするそうです。

調べてみると、このシャロームと言う挨拶の言葉は、祈りでもあるのですが、その内容は、たんに争いがないことだけでなく、物質的な繁栄、心身の健康、人間関係の調和など、望ましい状態の総体をも含むということです。

次の、「平和を実現する」というのは、実現するですから、自動的に平和が来るのではなく能動的で、平和を創り出すという意味でしょう。

これも人間にできることではなく、神の大きな働きによるのだと思います。

人間社会は自己主張がぶっつかりあう世界で、争いの絶えることがありません。

今のように力ある者が弱い者を腕力で支配するようなことが放置されれば、世界は平和どころか憎悪と殺りくの地獄になってしまいます。

刑法など法律がありますが、法律は秩序を維持する制度で、平和を創り出す制度ではありません。

平和を創り出すためには、争いの根本原因であり、人間の本性である自己中心性をなくすことが必要だと思います。

それは己の欲望を求めず、つまり、自分が無になって、相手の要求を無条件で受け入れることを要求されるのです。

といっても、決して要求を何でも聞き入れることではなく、現実的には正義のないところに平和はありえないのですから、相手の要求が正義に反するときには拒絶し、無抵抗ですから、正義にかなった解決の方法を忍耐強く求めると言うことでしょう。

無抵抗主義のガンジーのようにです。

ガンジーはヒンズー教徒ですが、キリストの言葉に倣って生きた人です。

わたしたちがいつも自分は正しいと言う前提でものを言います。

だから、自分が悪いと分かっていてもつい相手を責める言葉が出てしまうものです。

人が言葉を発すると、その人が意識していなくてもそこには必ず主観が入るものです。

それほど人間と言う者は自己中心的に物事を考えるものです。

自分があって人があるのです。自分の基準で人を量るのです。

でも、ここでは相手が自分に敵意とか悪意をもって接してきても善意をもって相手に応えることが求められるということでしょう。

といっても、本性が自己保身の強い、自己中心的な我々には大変難しい問題です。

ましてや相手が危害を加えようとするときは命がけの行為となる難しい問題ですが、キリストと共にあればそれができるとイエスは言っておられると思います。

次の聖句もそのことを言い表しています。

「わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」。(マタイの福音書第5章39節)

「わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」。(マタイの福音書第5章44節) 
「呼ばれるであろう」は未来形ですから、この祝福の言葉も終わりの時に実現する言葉だということでしょう。

そのような平和を創り出す人々は、終わりの日に神の子として扱われ、神の栄光の交わりに入れられるという意味に理解します。

●10節「義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」 

●11節.「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。」

●12節.「喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」

「迫害される人々は、幸いである」の迫害されている人々はどのような人かは、11節と12節で推測できます。

つまり、11節は「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。」。12節は「・・預言者たちも、同じように迫害されたのである。」ということです。

10節は時代背景が大きく影響していると思います。

なぜなら、「追い出され、ののしられ、汚名を着せられる」と具体的な表現だからです。

追い出されというのは、どこからか追い出されると言うことになりますが、時代背景を考えるとそれはユダヤ人教会堂からでしょう。

当時、まだキリストの弟子たちがユダヤ人教会堂でユダヤ教の一派としてイエスの教えを述べていた時のことだと思うからです。(このときはまだ今のようなキリスト教はなかった。)

当時イスラエルは宗教国家ですから、ユダヤ人教会堂から追放されると言うことは、ユダヤ人共同体から追放されることになります。

ということは、ユダヤ人社会では生きてはいけないことを指すと思います。

「ののしられる」は、旧約聖書の預言者も定めとして受けたように、ユダヤ人社会全体から悪口、罵倒されることだと思います。

「汚名を着せられる」は、ユダヤ人教会堂とかユダヤ人社会から追放れて、すなわち、村八分になるわけですから、神の民として誇り高いユダ人にとって汚名を着せられることになります。

もちろん、その理由は、イエスを終わりの日の裁きにおける救済者、つまり神の子と言い表す者だからということでしょう。

ユダヤ人はイエスが神の子であることを否定して、イエスは神を冒涜するものとして十字架にかけたのです。

同じ個所をルカは、第6章22節で「人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。」

同23節で「その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。」としています。

ルカの方が真実に近いと思われますので、マタイと比べると同じ聖句でもマタイの方が一般化されているように思います。

一般化されているのは、やはり時代背景があるのでしょう。

たとえば、マタイの教会がユダヤ教会堂から離れてユダヤ人以外の、異邦人信者が増え、異邦人社会と関わりを深めていくためにイエスの言葉を柔軟に現実に対応して書き換えが行われたのだと思います。

マタイの福音書第5章10節の、「義のために迫害される」の義とは、具体的にはイエスの言葉に従うことだと思います。

ここでは、イエスに倣って生きる生き方を貫く者の幸いが語られ、そのように生きるように励まされているのだと思います。

もちろん、この迫害はユダヤ教会堂から追い出されることとか、イエスの名のために殺されることを指しているのだと思います。

迫害を受ける信徒を勇気づけるためにこの様な聖句が残されたのでしょう。

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