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2017年10月 8日 (日)

腹を立ててはならない(マタイ5章)

マタイの福音書第5章21節から26節を読みます。ここは他の福音書には並行個所はありません。

マタイの福音書第5章

●21節.「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。

●22節.しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。

ここでは、兄弟に腹を立てる者、『ばか』と言う者、『愚か者』と言う者は火の地獄に投げ込まれるとあります。

まず、21節の、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている」。ですが、この殺すなという命令は、モーセ立法の「十戒」の中の一つで、もっとも基本的な神の戒めです。

どの国家でも宗教でもこの戒めを持っています。人類共通の普遍の戒めです。

出エジプト記21章12節には「人を打って死なせた者は必ず死刑に処せられる」とあります。

当時過失によって人を殺した者については、被害者の近親者による「血の復讐」から守るために、「逃れの町」の制度が定められていました(民数記35章9節~29節)。

しかし、故意の殺人者は「殺害者」として必ず死刑に処せられました(民数記35章16節~19節)。

このように2000年以上前に同じ殺人でも細かく配慮されているのはすごいことだと思います。

イスラエルはもちろん宗教国家ですから裁きと言いますと基本的には神の裁きを指します。故意に人を殺す者は、神の裁きにより神の民から排除されるのです。

この時代神の民から排除されることは死ぬことと同じだと言われています。

次は、22節前半の「しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける」ですが、21節と大いに違います。

このイエスの言葉によると、故意に人を殺す者だけでなく、兄弟に「腹を立てる」者はだれでも「裁きを受ける」のです。腹を立てただけなのです。

驚いて調べてみますと、イエスの言われる裁きは命を取られる死刑ではなく、神の裁きによって神の民から排除されるということだということではないかということです。

このように、イエスはモーセ律法をはるかに超えた厳しい「神の支配」下の戒めを告知されました。人を殺す者だけでなく、兄弟に「腹を立てる」者も同様に、神の民から排除されると宣言されたのです。

それでは、この「兄弟」というのは誰を指すのでしょうか。この語は旧約聖書とユダヤ教においては、普通の肉親の兄弟より広い範囲の人間関係を指すということです。

旧約聖書では、共通の先祖、同じ部族の者が「兄弟」と呼ばれているそうですから、イスラエルに属する者すべてが兄弟ということでしょう。

ここでは、同じ信仰共同体(イエスの言葉を信じる仲間)に属する者を指すのだと思います。

マタイはもっと広い意味で用いたのかもしれませんね。たとえば、兄弟の中に今現在何らかのかかわりのある者、すなわち隣人などをも含めているのではと思います。

「腹を立てる」とは具体的には、兄弟に向かって敵意をもつこと。実際に人を殺すとか傷を負わせたりしなくても、心の中で腹を立てるときは、イエスが宣べ伝えられる「神の支配」の中では「裁きを受ける」ということでしょう。

この場合の「怒り」は、憎悪や嫉妬なども含め、相手に対する敵意全般を意味すると思います。

このような厳しい戒めが用いられる場は、神の支配の下にあり、ただ、ひたすら神の無条件絶対の恩恵にすがるしか生きてはいけない者が、つまり、イエスの言葉を信じる者が、同じ神の恩恵によって生きている隣人を裁くことだと思います。

神の支配下では、裁き主は神であるのに、神ではなく自分を裁く者の立場において人を裁いていると言うことだと思います。

まとめてみると、このように恩恵を受けている神を無視することは、自分を神の恩恵の支配の中から追い出していることになるので、この神の恩恵の支配から追い出されることを「裁きを受ける」とイエスは表現されたのではと思います。

22節後半の、「ばか」と「愚か者」という言葉は程度の問題ではなく、この言葉を発する者の心の状態、つまり、高慢というか傲慢を表しています。相手の人格とか存在を認めない傲慢な言葉です。

神の支配の場では、恩恵を受けている者として傲慢な者は排除されます。

その排除が「最高法院に引き渡される」とか「火の地獄に投げ込まれる」という厳しい表現になったのでしょう。この表現は、もちろん、厳しさを表すためのたとえだと思います。

●23節.だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、

●24節.その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。

23節と24節では、兄弟に腹を立てる心をもてば裁きをうけると言っています。

だから、兄弟といつも仲の良い関係を維持しなさいということでしょう。

もし、兄弟があなたに反感を持っていれば、その反感の原因が何であれ、そのままでは、祭壇に供え物を献げても神に受け入れていただくことはできないので、その時には祭壇の前から立ち去って、まず敵対関係になった原因を取り除く努力をして兄弟と仲直りし、それから帰って来て供え物を献げ物をしなさいということでしょう。

兄弟と不仲の関係のままでは、神への献げものも礼拝も祈りも成り立たないということだと思います。わたしたちも肝に銘じて兄弟との関係を、隣人関係を平和に保つように心がけなければと思います。

●25節.あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き 渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。

●26節.はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない」。

25節は、訴える者との和解を勧めています。自分を訴える者との和解、我々を訴える者は神ですから、終わりの日における最後の審判の時までに神と和解をしておきなさい、という意味ではないでしょうか。

もし神と和解しないままで終わりの日の審判の場に引き出されたならば、わたしたちはただひたすら神の恩恵にすがるしか罪を赦されることがないのですから、「途中で」、すなわち最後の裁きの時が来るまでに神の和解を受けるようにとの呼びかけだと思います。

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コメント

仲直りしろだの和解しろだの簡単に言いますがね
人と人との間には力関係というものがあるんですよ
キリスト教は物事を単純化して断罪し
無垢な人々を追い詰める
非人道的思想流布のものであって
現代社会においては害悪でしかありません

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