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2017年10月22日 (日)

離縁してはならない(マタイ5章)

聖書個所はマタイの福音書第5章31節から32節、同19章第1節から12節です。

共観福音書の並行個所は、マルコの福音書10章11節、12節。ルカの福音書16章18節です。

マタイの福音書に沿って見てみたいと思います。

「みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」(28節)とイエスは言われました。ここでは、律法に沿って妻を離縁する者も姦淫を犯す者として、イエスは糾弾されました。

マタイの福音書第5章

●同31節.「『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と命じられている。

ここの「『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と命じられている」というのは、旧約聖書申命記24章1節~4節に「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる」。という律法規定から来ているのでしょう。

男からの一方的な離縁状です。日本でも江戸時代にそういう習わしがあったと聞きます。

この規定は,字義どおりに読むと余りに勝手な内容なので、時代背景を調べてみますと、当時離縁された女性は離縁状がなければ再婚できなかった。

また、女性一人では食べていけない社会状況でもあったので、離縁状は離縁された女性が再婚できることを保証するもので、この命令は社会的に弱い立場の離婚女性を保護するためのものであるということです。

しかし、実際には妻を取り替えたい男性の身勝手の道具になっていたようです。

問題はどういう場合に離縁できるかですが、調べてみると、子ができなかったこととか、祭儀上の不浄をうけたこととか、料理ができないなどを恥ずべきことに入れていたようです。不品行に限る考えもあったようです。

●同32節.しかし、わたしは言っておく。不法な結婚でもないのに妻を離縁するものはだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる」。

31節のように離婚を認めるユダヤ教律法に対して、マタイは本節で「不法な結婚でもないのに妻を離縁」することは、(離縁状なくて・・おそらく生きていくために・・再婚せざるをえないので)その女に姦淫の罪を犯させる。

また、その女を妻にする者にも姦淫の罪を犯させることになるとして、離婚をただちに姦淫とするイエスの厳しい言葉に倣っています。

マタイの福音書19章

●同1節.イエスはこれらの言葉を語り終えると、ガリラヤを去り、ヨルダン川の向こう側のユダヤ地方に行かれた。

●同2節.大勢の群衆に従った。イエスはそこで人々の病気を癒された。

●同3節.ファリサイ派の人々が近寄り、イエスを試そうとして、「何か理由があれば、夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と言った。

●同4節.イエスはお答えになった。「あなたたちは読んだことがないのか。創造主は初めから人を男と女とにお造りになった。」

●同5節.そして、〔神は〕こうも言われた。「それゆえ、人は父母を離れて、その妻と結ばれ、二人は一体となる。

●同6節.だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」

3節でユダヤ教律法学者らはイエスに、そもそも「何か理由があれば、夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねます。

6節でイエスは、「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」と、創世記2章24節の言葉で答えられます。

そうすると、神が結び合わせてくださったものを人は話してはならないというイエスの言葉は、申命記24章1節~4節の離縁状により離縁を認めている律法の規定と矛盾することになります。

律法は、ユダヤ教にとって神から与えられた定めとして、絶対無条件で遵守しなければならない規定でしたから、ユダヤ教ファリサイ派の律法学者は3節でその矛盾を突いてきたのでしょうね。そうしてイエスを試そうとしています。

イエスが神の子なら神の戒めに反するのはおかしいのではということです。

もちろん、その根底には、イエスが律法の明文を無視する者であるとの証拠を言い逃れできないように人々の前でつかもうとしていたのでしょう。

そして、イエスを捕らえ裁判にかけて殺すことを目的としていたのだと思います。

●同7節.すると、彼らはイエスに言った。「では、なぜモーセは、離縁状を渡して離縁するように命じたのですか。」

そこで彼らはモーセ律法の規定を述べて、この言葉を投げかけてイエスに詰め寄りました。さあどうだと言う感じです。

これは、「お前の言っていることは、モーセ律法の明文(申命記24章1節)を無視することではないか」という問い詰める形の質問です。

●同8節.イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、モーセは妻を離縁することを許したのであって、初めからそうだったわけではない。

●同9節.言っておくが、不法な結婚でもないのに妻を離縁して、他の女を妻にする者は、姦通の罪を犯すことになる。」

7節の詰問に対してイエスは、離縁状の規定について、「あなたたちの心が頑固なので、モーセは妻を離縁することを許したのであって、初めからそうだったわけではない。」と説明されました。

すなわち離縁状は本来の創造者の意志ではないというのです。

そうであれば、律法の規定を守っていても、必ずしも神の意志に従っていることにはならないわけです。

律法を順守すれば、神に義と認められるというユダヤ教の根本的な立場は崩れることになります。

本来の神の意志は、マタイの福音書第16章6節の「離縁してはならない」です。

創世記第2章第24節「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。」とあるように、結婚は神が祝福される行為で、二人を結び合わせるのは神の恩恵です。

神はそうするようにわたしたちを作られたのです。そうですね、結婚は創造のみ業(子供を産み育てることも含めて)の一つなのです。

創世記9章1節に「神はノアと彼の息子たちを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちよ。」とありますからね。

だから、神は離縁を禁じているのです。しかし、これは心が頑ななゆえに神に背反しているイスラエル人には、(すべての人々とも言えますが)現実には実現困難なように見受けられます。

だから、女性を守るために離縁状と言う現実に即した制度がもうけられたのでしょう。

では、その神の意志を実現するのにはどうすれば良いのでしょうか。

わたしたちの心が頑なで、神から離反しているからそういう規定があるのですから、その頑なさが打ち砕かれて、神の意志に従順になればよいのです。

その方法は、イエスの十字架死による罪の許しという絶対恩恵の恵みにすがって初めて心の頑なさが砕かれるのです。そのような神の恵みにすがる生き方をすると離婚はあり得ないのです。

絶対恩恵の恵みにすがると言うことは、イエスの十字架死に与り、古い自分に死に新しい命に生きるということです。

もちろん、そういうことがなし得るのは、イエスの言葉を信じて神の御霊を受け入れて、御霊の働きに自己のすべてを委ねることで初めて成就されるのですね。人間の努力のみではできないのですね。

したがって、本来の結婚関係においては、マタイはそれを第19章9節で「不法な結婚でもないのに妻を離縁して、他の女を妻にする者は、姦通の罪を犯すことになる」ということになるのです。

●同10節.弟子たちは、「夫婦の間柄がそんなものなら、妻を迎えない方がましです」と言った。

厳格な禁止規定を聞いて弟子たちは困惑しました。

そこで本節のような「夫婦の間柄がそんなものなら、妻を迎えない方がましです」と言う弟子たちの言葉になるわけです。

神の御霊の働きはイエスの十字架、復活、聖霊降臨の後のことですから、まだ弟子たちにはこの言葉は理解できなかったのでしょう。

●同11節.イエスは言われた。「だれもがこの言葉を受け入れるのではなく、恵まれた者だけである。

●同12節.結婚できないように生まれついた者、人から結婚できないようにされた者もいるが、天の国のために結婚しない者もいる。これを受け入れることのできる人は受け入れなさい。」

10節の弟子たちのボヤキに対してイエスは11節と12節の言葉で応えられます。

9節までにあるように、結婚は神のみ業ですから本来誰もが結婚すべきですが、それでも例外としてイエスは、結婚しない、あるいはできない場合の例を上げられています。

「しない」場合が「天の国のために結婚しない者」です。「できない」場合は、「結婚できないように生まれついた者、人から結婚できないようにされた者」です。

つまり、天の国のために働くので結婚しない人、その人の責任でなく結婚できない人もいるのだから、結婚できる人は神様の恵みだから結婚しなさいということでしょう。

「天の国のために結婚しない者」というのは、イエスの弟子すべてではなく、イエスは、第19章11節・12節にあるように「だれもがこの言葉を受け入れるのではなく、恵まれた者だけである」と言われています。

独身生活は結婚生活の煩わしさから逃れるためのではなく、神の国の働きのために生涯を捧げるためでなければなりませんが、それは、そうせざるをえないほどに御霊の働きに満たされ、導かれた人の特権だといえます。

つまり、選ばれた人だと言えます。

やはり結婚すれば家庭のこと、子供のこと、ひいては経済のことなど関連するわずらわしいことが多くなり、心が神から遠ざかる機会も、罪への誘惑も多くなるのが問題なのですね。

ということは、結婚した聖職者は、両者に挟まれて人生を歩むことになると思います。

第一に信仰、第二に家庭となるのではと思うのですが、いかがでしょうか。

その人生は、独身を貫くこと以上に大変かと思います。

わたしなどにはとてもできそうにありません。

たとえば、パウロは使徒として生涯独身を貫きましたし、現在でも、主にカトリック教会においては聖職者とか修道院で生涯独身であることの定めが取り入れられていると聞きます。

結婚は神から出たもので離婚すべきではないのですが、離婚するのは自由ですが、そのことにより、離婚に伴う苦しみや悩みや心の傷を負うのは、避けることはできません。

なお、離縁してはならないといわれましても、やはりいろいろと事情があり、人の思いもそれぞれですから、現実には離縁をなくすことはできません。

6節にあるように、「神が結び合わせてくださった」婚姻であることという前提条件がついていることと、この戒めはあくまで2000年前のユダヤ人に向かって語っているということを忘れてはいけないのではないでしょうか。

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