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2017年10月30日 (月)

祈るときには(1)(マタイ6章)

今回はマタイの福音書第6章7から15節です。

共観福音書の並行個所はルカの福音書11章1から4節です。マタイの福音書に沿って見てみたいと思います。

ここはいわゆる「主の祈り」と言われているところです。

二回に分けて思うところを書いてみたいと思います。(1)はマタイの福音書6章7節から9節まで、(2)は同10節から15節です。

マタイの福音書第6章

●7節.また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。

●8節.彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。
イエスは弟子たちに対し、祈り方についてこのように祈りなさいと具体的に示されました。

ここの6章7節と8節は、これからイエスが祈り方について語られるので、その前置きでしょう。

イエスは異邦人(イスラエル人以外)を引き合いに語っておられますが、問題になっているのがイエスを信じないユダヤ人たち、とくにユダヤ教ファリサイ派の人たちや律法学者を念頭に置いておられると思います。

異邦人の世界は多神教の世界で、つまり、神々の世界(日本でも山の神とか海の神など)ですからそれぞれの神に祈る必要があります。

ユダヤ教は、神はお一人ですが多数の呼称をもっていました。だから、ユダヤ教ファリサイ派の人たちや律法学者は一つでも神の名を落とさないように全部羅列して祈っていたということです。

ユダヤ教は一神教でも多くの神の呼称を持っていると書きましたが、どのような呼称があるのか調べてみると、われらの神、われらの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、偉大にして力強く、また恐るべき神、いと高き神、助け主、救い主、そして楯なる王などなどです。

祈り方もいろいろです。自分の生活上の必要が満たされることを求めて、それが満たされるまでくどくどと祈る人。
大きな声を出して言葉数多ければ、あるいは回数が多ければ聞き入れられると思い込んで何度も同じことを祈る人。

たどたどしいが、言葉短く誠実に祈る人、流暢に言葉巧みに祈る人などいろいろです。

ユダヤ教の祭司の人々は他人に見せるため、あるいは聞かせるために長々と大きな声で祈ったということです。

マタイの福音書6章6節に祈る場所についてイエスの言葉があります。

「だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」です。

ということは、祈るのは、祈っているところを他人に見せるものでも聞かせるものでもないと言うことです。

隠れたところにおられる神様に聞いてもらうために祈るのです。

●9節.だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。

イエスは8節にあるように「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」から、と前置きしてこのように弟子たちに言われました。

父なる神はあなたの必要をよくご存じですから、祈りは自分の生活上の必要が満たされることをくどくどと祈るのではなくて、「だから、こう祈りなさい」と言って見本を示されたのだと思います。

先に、「主の祈り」の特徴を書きますと、主の祈りはきわめて短く、簡潔であることです。

なぜ短く簡潔かと言いますと、神はわざわざ祈らなくてもわたしたちの必要は満たされるのですから、わたしたちのことを祈る、つまり、自分の生活上の必要を祈り求めるものではなく神との関わりにおける自分の在り方について祈ることが大切だからだと思います。

マタイの福音書6章12節とルカの福音書11章4節の「負い目」と訳されている言葉は、解説書によるとギリシャ語では「借金」という意味だということです。

アラム語では、「借金」と「罪」という両方の意味をもっているということです。

イエスは祈られる時は、「アッパ、父よ」と呼びかけておられました。

アッバというアラム語は、調べてみると、もともと幼児語でしたが、イエスの時代までに成人した子が父親を呼ぶ言葉にもなっていたということです。

といっても、イエスが幼児語で呼びかけられたかどうかは疑問ですが、その呼びかけは、イエスと父なる神の親子間の親しい間柄を表す呼びかけであったと思います。

イエスが父なる神と親しい関係におられたのは、神の御霊、聖霊に満たされておられたからと言えるでしょう。

それこそ、霊はすなわち神の言葉ですから、神の言葉を共有して父なる神と一体であられたと思います。

イエスへの聖霊降臨の最初の描写は、マルコの福音書第1章9節から11節に、ヨルダン川でヨハネからバプテスマをお受けになったとき、聖霊が鳩のようにイエスの上に降り、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声を聞かれたという形で伝えられていますが、そのほかでも、イエスは祈られる時にはいつも聖霊に満たされて祈られておられます。

逆にいえば、聖霊に満たされて、聖霊に導かれて祈るから、自然とそういう親しい呼びかけができるということではないでしょうか。

祈りは形式ではないのですね。父なる神との親しい交わりの中に自ずとなされるものなのでしょう。

さて、前置きが長くなりましたが、ここの「天におられるわたしたちの父よ、・・・」は、「アッバ」は本来「わたしの父」ですが、みんなで祈る時は複数形で「わたしたちの父」となります。

わたしたちの父ですから、信徒は同じ父をもつ者としてお互い兄弟姉妹の交わりにあることになります。

だから、クリスチャンはお互い姉妹とか兄弟と呼び合います。

「御名が崇められますように」は、御名ですから神の名ですね。神の名とは神はどのような方であるかを示す言葉です。

神がどのような方かは、神が自ら顕わされる範囲で人間は神を知ることができるのだと思います。旧約聖書の時代は、神は預言者たちに臨まれて神の名を顕せました。

モーセを通してイスラエルに、「わたしはヤハウェ、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」(出エジプト記20・2)というようにです。

そのように考えれば、父なる神はイエスの時代になって、イエスの十字架死と復活によって神は神の名を啓示されたといえます。

だから、イエスの十字架死と復活の意味づけが大切なのですね。

イエスはイエスの身に起こったその出来事(十字架死と復活)により、「主イエス・キリスト」となられました。これが御名です。

「主イエス・キリスト」という御名は、まず、第一に、人類の罪を贖う生贄としての神の子イエスの十字架死ですから、「ひとり子を賜うほどに世を愛する神」であり、その子を死から復活させることにより、罪の中にいるわたしたちを誰でも無条件で赦し、古い命から新しい命に生かしてくださるそういう神です。

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