山上の説教(2)(マタイ5章)
今回はマタイの福音書5章4~6節/ルカの福音書6章21節を読みます。
マタイの福音書第5章
●4節.悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。
ルカの福音書第6章
●21節.今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる。
●24節.しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたはもう慰めを受けている。
●25節.今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、あなたがたは飢えるようになる。
さてこのマタイの福音書6章4節の「悲しむ人々」とは、ルカの福音書6章21節の「今泣いている人々」と同じでしょう。
おそらくマタイの「悲しむ人々は」のほうが元のイエスの言葉に近いのでしょう。
この悲しみの背景は、社会的・政治的・軍事的な状況が引き起こす悲しみだけでなく、個人の悼みまで、あらゆる悲しみが含まれていると思います。
この悲しみの根源には、何度も預言者を遣わしたのに罪を犯し続けたイスラエルの、ひいてはわたしたち人類の神に対する罪があると思うのです。
それは個人も国家も含めた神を神と思わない、あるいは神を認めない罪と、これを悔い改めない人間の傲慢と自己中心性から来るものだと思います。
この意味では、マタイもルカも伝えようとすることは変わらないと思います。
また、「慰められる」に対応するルカの福音書の個所は「笑うようになる」(ルカ6章21節)ではないかと思いますが、ここでもマタイは一般的な言葉に置き換えています。
もちろん、この「慰められる」は、御霊の働きの中にあってということですから、「笑うようになる」というのも、御霊に満たされることによって得られる慰めと平安から導かれる(喜びに近い)笑いと言う意味ではないでしょうか。
聖霊に満たされて笑っておられる方に聞いたのですが、その時の心の中は平安で喜びに満ちていたということです。
なお、前回にも書きましたが、「幸いである」というのは、神から与えられる祝福を意味すると思います。そして、祝福されるのには、なにも行いを必要としないと思います。神の祝福は無条件で絶対的に平等です。
悲しんでいる人々は世界中におられます。
他国の食糧援助だけに頼って生きている大勢の人たちがおられますが、そういう人たちは決して「幸いだ」とは言えないでしょう。
貧しい、飢えている、悲しいだけでは幸いではありません。これは不幸なことです。
ではなぜその不幸な人たちが幸いになるのでしょうか。
それは、もう目の前に神が支配する神の国がやって来ているのですが、この人たちのように神にすがるしか頼るべきものをも何も持たない人たちは、神を知ることにおいて最も近いからといえないでしょうか。
神の国(神の支配)が来るとなぜ幸いになるのでしょうか。
それはその者に神の御霊、聖霊が内住され働かれるからと言えます。
神の御霊が働くと貧しくても元気がでるのです。そう、神の御霊の働きは命の創造ですから、命が活きるのです。
命は生きる力ですから、前を向いて生きようとする創造の力が湧いてくると言うことです。
そういう状態が幸いだと言っているのでと思います。
反対に、今富んでいる人とか満足している人は災いで不幸です。
なぜなら、頼るべきものを多く持つ人、富の力に支配されている人、富んで満足している者は神から最も遠いと言えるからです。
そういう人たちは、富の力に支配されていますから、神のことが目に入らないし、神を必要と思っていないのです。
参考個所は、ルカの福音書第6章24節・25節です。
●5節.柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。
このみ言葉はルカにはありません。「貧しい人は地を継ぎ・・」というのは詩篇37編11節の言葉と同じです。
「柔和な」という形容詞は、新約聖書ではイエスのことを柔和な者として描かれているところがあります。
たとえば、マタイの福音書第11章29節の「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」です。
この時期の時代背景は、熱心党の反ローマ運動が盛んで、神の支配をもたらすためには神の民が立ち上がり、武力を用いてでも異教徒であるローマの支配を覆さなければならないという気風が強くなっていたということですから、
その流れの中でイエスは、神の恩恵(慈愛)だけに信頼して、非暴力で無抵抗の道を歩まれましたが、そのようなイエスとその弟子の姿を、マタイは「柔和な」という形容詞で描いているのでしょう。
「柔和な」と言う言語は、「虐げられて貧しい」と「柔和で謙虚な」の両方の意味があるということですから、「貧しい」ともつながり、権力を持たない人たち、あるいは権力によって虐げられる人たちをも意味すると言うことです。
対照となる言葉は「奢り高ぶる者」ですから、奢るべき何物も持たない人々、神にすがるしか方法がない人々ということでしょう。
では、「地を受け継ぐ」という幸いは、どのような意味でしょうか。
受け継ぐというのは相続するという意味の動詞ですから、聖書からみるとイスラエルが神の約束によって与えられたカナンの土地となるのですが、イエスは新しい律法を持って全人類を罪の中から救済するためにこの世に来られたのですから、
マタイが「地を受け継ぐ」と言うとき、それはカナンの地という地上の領土の支配者となることを意味しているのでなく、終わりの日の救済の到来としての神の支配に与る、つまり、罪許された者が神の国を受け継ぐことを意味していると理解すべきでだと思います。
●6節.義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。
飢え渇くと言う言葉の前に「義に」を付けています。
マタイの福音書第5章20節には、「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」という聖句があります。
これを言い換えれば、「天の国」に入る者は義なる者であるが、その「義」が「律法学者やファリサイ派の人々の義」にまさるものでなければならないと言っておられるのだと思います。
律法学者やファリサイ派の「義」にまさるとはどういうことでしょうか。
それは、マタイの福音書第5章21節の「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は……と命じられている。
しかし、わたしは言っておく」という形で、マタイの福音書第5章21節以降に書かれている、ファリサイ派などユダヤ教一般の律法よりはるかに厳しい、完全に神の御旨を行うことを求めている教え、
つまり、「腹を立ててはならない」、同27節以降の「姦淫してはならない」、同31節以降の「離縁してはならない」、同33節以降の「誓ってはならない」、同38節の「復讐してはならない」、同43節の「敵を愛しなさい」を守ることだと思います。
こうして見ると、「義」とは人間の行為とか在り方に関わるものであることが分かります。
そうすると、マタイの福音書第6章32節の「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」というときの「神の義」も、同じ意味を持つものと思います。
「神の前に通用する人間の正しい行為とか在り方」という意味であると理解したいと思います。
神の前に通用する正しい行為とか在り方、つまり、具体的には山上の説教に書かれた新しいイエスの律法ということになると思いますが、見ての通り人間の能力や努力ではとても守れないことばかりです。
それは、神の支配に、御霊の働きに人間が自己を明け渡して完全に委ね、御霊の導きに生きるときに初めて成就できるものと解釈します。
約2000年前にイエスがこの世に来られて神の支配がはじまりました。
したがって、そういう事態は必ず将来実現するのです。神の約束ですからならないことはありません。
そのような事態には、マタイの福音書第5章5節で書きました「柔和な人々」「心の貧しい人々」が近いと言えますからそういう人々は幸いと言えます。
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