施しをするときには(マタイ6章)
今回はマタイの福音書第6章1節~6節です。共観福音書には並行個所はありません。
●1節.「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。
この「善行」と言うのは、文字の通り正しい行いと言う意味だと思います。
協会訳は「義」と訳されています。何が正しいかは、「義」ですからその行いが神の御心に適っていると言うことでしょう。
マタイの福音書は施し、祈り、断食という代表的な善行をあげて、それらは人の目に目立つようにしてはいけないと教えています。
律法学者やファリサイ派の人々の他者に「見てもらおうとして」する施しとか祈りと対比して、その人たちを、偽善者と決めつけて忠告しているのでしょう。
●2節.だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。
彼らとは、律法学者やファリサイ派の人々のことで、イエスの弟子は施しをする時は彼らと正反対、つまり、人の目につかないように行うべきことが、具体的に語られます。
「彼らは既に報いを受けている」というのは、人に見られるように行う者は、人からの誉れという報いを既に受けているということでしょう。
その報いは、人からの誉れですから、あの人は信心深い立派な人だという評判を得るという形で、社会で報いを既に受けているということでしょう。
だから「天の父のもとで報いをいただけない」ということでしょう。
神に正しい行い(神の御心に沿った行い)をしていて報いを受けていない人は、4節にあるように、「そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる」ということになります。
「偽善者」というのは、一般に悪しき本心を隠して、人目には善いことをしているように見せかける人のことを言うのだと思いますが、ここでは、ユダヤ教の律法学者やファリサイ派の人々を偽善者として、イエスの弟子たちに、施しや祈りや断食をする時は、うわべを飾る見せかけのものにならないように、つまり、偽善に陥らないようにと警告されているのだと思います。(2節)
ここで「施し」というのは、調べてみるとユダヤ教団への制度としての十分の一献金ではなく、金品や資産を貧しい人たちに自発的に与える行為と指すと言うことです。
この施しは、喜んで(強制とか制度としてではなく自発的に)見返りを求めないで他者に仕え、与える行為のことを言っているのでしょう。
●3節.施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。
この聖句は、イエスが弟子に語った言葉ですが、イエスの弟子が施しをするときは、「右の手のすることを左の手に知らせてはならない」とはどのような意味でしょうか。
調べてみるとこれは格言ではということで、すぐ後に4節で「あなたの施しを人目につかせないためである」と説明しています。
「右の手のすることを左の手に知らせてはならない」というのは、自分の体の一部のような身近な人にも「知らせてはならない」、という意味に理解したいと思います。
神の恩恵により生きる者であることを自覚し、その恩恵に感謝して生きる姿勢が徹底されていれば、特に施しとか義を行っているのだという意識はなく、神の恩恵を受けた者として、他者に奉仕することが自然と当たり前に行われるようになるということでしょう。
他者の目を意識して、義務として奉仕するのは、自分のためにしているのであって、神の恩恵を受けた者のすることではないのです。
聖霊が働く場においては、他者への奉仕が喜びとなり、それが特別のことではなく、当たり前のこととなるということだと思います。
そうすると、先の2節とは反対で、その人たちは社会で報いを受けていないので神から報いを受けることになるということでしょう。(4節)
●4節.あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」
神は「隠れたことを見ておられる神」です。当時のユダヤ教が、とくにその代表者ともいうべき律法学者やファリサイ派の人々が、人の目に目立つような形で、敬虔なふりをして、自分がいかに信仰深いかということを見せびらかしていました。
イエスはそういう人を偽善者として厳しく批判されました。
隠れてなされる施しは、「隠れたことを見ておられる父が報いてくださる」のです。
その報いは、人から受ける報いのように、財産とか名誉とか権力などのように目に見える形で来るのではなく、わたしたちが見えない次元、すなわち霊の次元、来世での報いだと思います。
その報いは同時に命を活かす報いだと思います。聖霊はわたしたちの内にあってわたしたちに生きる喜び、存在する喜びを教えてくれます。命が輝き活きるのですね。
東北大震災で、後片付けのためにボランティア活動に携わる人たちが多くおられます。
その人たちの声として「人を助ける活動を通して、自分が生きる喜びを見出すことができた。本当に助けられたのは自分の方です」と言われるのを聞きます。
このような喜びが自然と沸いてくると言うことは、その行いが神の御心に沿っているからだと思います。
ボランティアというのは報酬なしで自発的になされる(金品ではなく自分の能力を捧げて)奉仕活動のことですから、ボランティア精神に徹して行われる奉仕は、社会的な報酬は伴わない分、「隠れたところにおられる父」から報いを受けると思うのです。
どの宗教に属する者であれ、そのような人はイエスの教えの近くで生きている人だと言えるのではないでしょうか。
その人たちは、たとえキリストを知らなくて死んでも来世において祝福、つまり、神様の報いは当然で、天国にも迎えられるのではないでしょうか。
逆にまじめに教会に通い、クリスチャンだと公言している人でも他者から誉を受けたいために奉仕活動をしている人は神からの報いはあるのでしょうか。
●5節.「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。
クリスチャンにとって、祈りは神とのホットラインです。祈りなくして信仰生活はありえません。もし祈りが偽善者のように人に見せるためのものならば、信仰は空虚なものになってしまいます。
わたしも祈りながら他のことを考えていることがよくあります。
祈りが空虚なものにならないように努力(努力するようではだめですが)しているのですが、雑念に惑わされて、納得できるような祈りができません。
信仰者にとって祈りは自分の願い事を神の前に羅列することではなく、神からの語りかけを待つ場でもあると思います。神からの語りかけを受けて、それに応答する場なのですね。
ユダヤ教の律法学者やファリサイ派の人々においては、信仰のもっとも内面的な営みである祈りが、人に見せびらかす行為になっていましたのでイエスは指摘しておられるのです。
当時の律法学者らの祈りの現実を調べてみますと、彼らは会堂や大通りの角で「立って祈りたがる」と書かれていました。
会堂の中でも、皆が座っている中で「立って祈る」人は目立ちます。
「大通りの角に立って祈る」というのは、ユダヤ教では祈りの時間が決まっていたので、ちょうどその時刻に大通りにいるようにして、人通りの多い街角で立ち止まって祈ったのではないかと言うことです。
これも人の目に目立つためでした。このように、偽善者の祈りは神の目ではなく人の目を意識して祈る祈りであり、人から信心深い人物という評判を得たいからだと言えます。
人に見られるように行う者は、「あの人は信心深い立派な人だ」という評判を得るという形で、社会で報いを既に受けているのです。
ということは、そのような人は神から受ける報いはないことを意味しています。
●6節.だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。
ここでは、イエスは弟子たちに対して、「奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」と勧告されています。
ここで「奥まった部屋」と訳されているギリシャ語は、農家によくある住居から離れた納屋を指す言葉だと言うことです。
住居では誰かが一緒にいるから、離れた納屋に入り、戸を閉めて、一人きりになって祈りなさい、という勧告なのでしょう。
現実には、なにも納屋でなくても、自分一人になれる部屋に入り扉を閉めて、誰からも邪魔されないようにして祈れ、ということでしょう。
こうして、細かく神との交流の場である祈りの仕方を勧告しています。
イエスも祈る時は、「・・人里離れた所に退いて祈っておられた」のです(ルカの福音書第5章16節)。
そのような場での祈りであって初めて、神との直接対話が可能になるのでしょう。
何を持って神は報いてくださるのか、それは、パウロが言っているように信仰(神との交流)と愛(人間関係)と希望(来世)によって生きることで、平安と喜びと勇気というような霊の賜物で報いて下さるのでしょうね。
なお、福音書が書かれた当時は、キリストの共同体は、おそらく、厳しい迫害の中にあったと思いますから、神の報いは来世に於いて得られるとされていたでしょう。
また教会では、複数のクリスチャンが集まってよく祈りますが、一人よりも多数が互いを助け合って一体となって祈ることは、祈りを熱くするのでよいことだと思います。
この場合は、祈る人全員がクリスチャンですから、他者の誉れを期待して祈っているわけではないので、「偽善者」に当たらないと思います。
祈りについて、偉そうに書きましたが、わたしは祈ることに苦手です。
なぜなら、わたしは究極の事態にならなければなかなか真剣に祈れないのです。
習慣のようになされる祈りは、聞いて下さらないことも多いと思うのですが、それでも祈ることに意味があるのでしょうね。
今までの経験では、究極の事態、人生にとって重大なことを祈ったときは叶えられていると思います。
それはまさしく奇跡とも言えますが、奇跡は古い命に死に、つまり、古い自分を投げ捨てて新しい命に生きる、つまり、御霊に自己のすべてをゆだねることができた時にはじめて実現するものと思います。
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