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2017年10月13日 (金)

復讐してはならない(マタイ5章)

マタイの福音書第5章38節から42節/ルカの福音書第6章29節から30節
マタイの福音書にそって読んでいきたいと思います。

マタイの福音書第5章
●38節.「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。

人類の歴史上で「敵を愛せよ」といわれた教祖はイエス以外おられないのではと聞いています。この言葉によって罪に沈む人間世界に一筋の光が入ったのです。

この言葉こそ、イエスの教えの核心ではないかと思うのです。ここの「復讐してはならない」は「敵を愛せよ」を消極的に言っておられるのだと思います。

この聖句の「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている」というのは、旧約聖書レビ記第24章19節から20節の「人に傷害を加えた者は、それと同一の傷害を受けねばならない。

骨折には骨折を、目には目を、歯には歯をもって人に与えたと同じ傷害を受けねばならない」。から来ているのでしょう。

人に傷害を与えた者は、与えた傷害と同じ傷害をもって罰せられるという戒めは、「同害報復法」と呼ばれ、古代社会に広く認められ行われていたということです。

「人に与えたと同じ傷害を受けねばならない」ということを逆にいえば、この戒めは、傷害を受けた者が相手に限度を超えた復讐をすることを制限するための戒めであるともいえます。 

このように、この戒めの背後には、悪を受けた者は、その悪の範囲内という量的制限はありますが、復習するのは当然のことだとも言っているわけです。

罪を起こさせないために戒めです。

●同39節.しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。

それに対して イエスは、ここで「しかし、わたしは言う。悪人に手向かってはならない」と言われたのです。

「悪人に手向かってはならない」という言葉が、イエスから出た言葉か、あるいはマタイがイエスの言おうとされたことをまとめた言葉かは議論があるそうですが、イエスがそういう意味の教えをされていたのは事実だと思います。

この言葉は、ルカの福音書の並行個所(ルカの福音書6章27節)では「敵を愛しなさい」となっていますが、わたしが思うに、ルカの方がイエスの言葉に近いと思いますので、この厳しいイエスの言葉をマタイが「悪人に手向かってはならない」と言うように和らげて表現したのではと思うのです。

たとえ敵を愛することそれ自体は難しくても、暴力に対しては決して暴力で抵抗してはいけないと言い換えたのではと思うのです。

消極的な非暴力でも敵を愛することにつながるのではないでしょうか。

ガンジーの無抵抗主義ですね。ガンジーはキリスト教徒ではなかったと思いますが、イエスの言葉を実践した方だと聞いています。

ルカの福音書には同じような意味の言葉が並びます。

ルカの福音書第6章29節から30節の「あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない」です。

このように、ルカは「あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい」と書いていますが、マタイはもっと積極的に、「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」と言っています。

調べてみると、同じ手で両ほほを打つためには、手の裏表を使う必要がありますが、手の甲で頬を打つのは、ユダヤ人社会ではひどい侮辱を意味しているということですから、「右の頬を打たれる」とは痛みよりも大変な侮辱を受けることになると言うことです。

それなのに「左の頬をも向けなさい」というのは、その侮辱に対して侮辱をもって報いることなく、侮辱を甘んじて受けよということになります。

また、ルカは29節で「上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない」と書いています。強盗が衣服を強奪する場合、まず上着から剥ぎ取ります。

そして、上着に続いて下着も力ずくではぎとろうとします。

そのときは、抵抗せず下着をも取らせなさいというのです。つまり、なすがままになされよというのです。

●同40節.あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。

ルカの39節に対して、マタイの福音書では、「あなたを訴えて下着を取ろうとする」とありますから、この訴えと言う表現は訴訟の場面ですから、法廷で下着を差し押さえられた者は、上着をも差し出しなさいと言っているのです。

当時の暖房設備も持たないイスラエルの貧しい人々にとって、夜のきびしい寒さに耐えるためには、上着は唯一の夜具であったでしょう(旧約聖書出エジプト記第22章25節から26節)。

両者の表現を比較すると、ルカは一般に起こりうる状況を描いていて、マタイは当時のユダヤ人社会の状況を背景にしているからということではないでしょうか。

暴力に暴力をもって応じるならば、その応じた側も、暴力をふるう側と同じレベルの人間にされてしまいます。

そういうことが重なると、暴力に無頓着になり自分の心もむしばまれることになり、ひいては自分の人間としての本質をも変えてしまします。

本質を変えると言うのは、罪を犯しても罪を罪と感じなくなることです。そうすれば、悔い改める機会もなくなります。

これを避けるためには、敵を愛することが困難であれば、自分の心を守るためには、無抵抗を通すしかないということでしょう。

暴力には相手の身体に対する暴力と言葉による暴力がありますが、身体に対する暴力から身を守るのは無抵抗でよいでしょうが、言葉の暴力から心を守るのはやはり沈黙するとか祈るしかりが方法はないでしょう。

どちらにしても憎しみを持たないようにしなければ自己の心を守ることはできません。

しかし、神から離反し自己中心的な道を歩むわたしたちには、憎しみを持たないようにすることはとうていできそうにありません。身内を殺されれば復讐したくなる、殴られれば殴り返したくなるのは人情です。

自己を防衛することは人間に与えられた権利ですが、その防衛の仕方が問題なのです。

その様な状態を解決する方法として、罪を憎んで人を憎まずという考え方がありますが、これは人を悪に導こうとする悪への力(育ちとか環境、あるいはそれらを用いて罪を犯させようとするサタンの働き)が悪いのであって、悪に導く力と人を区別する必要があるということですね。

これは、聖書の教えがあって初めて成り立つ教えだと思うのです。イエスが、十字架の上で「父よ、彼らを赦して下さい。彼らは自分のしていることを知らないのです」と言って祈られたのはこのことだと思います。

パウロもガラテヤの信徒への手紙 第5章17節で「肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。

肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。」と言っているとおりです。

悪に誘う力は悪霊の力ですから、わたしたちの努力とか決心で対抗することはできないと思います。

だから、悪の力と同じ霊の力である、神の御霊、聖霊の力により対抗することが必要かと思うのです。だから、クリスチャンは神の助けを求めるために祈ります。

このように、悪の力に対抗するにもやはりイエスの言葉(イエスの御霊)を信じ、聖霊に内住していただき潜在意識を支配していただくことが必要かと思うのです。

そうであって初めて、罪を憎んで人を憎まずという言葉が実践訓として本当の意味で生きてくると思うのです。
憎しみは憎もうと思って憎むのではなく、腹の底から湧きあがってくるものです。

腹を立てるのも同じだと思います。だから、自分の意志とか努力で抑制できるものではないということでしょうね。

聖書の教えを信じる信仰をもたない人がそういう言葉を使われていることがありますが、わたしにはどういう意味で言われているのか不思議に思います。

もちろん、国家と国家、宗教と宗教、共同体と共同体の場合も同じだと思うのです。戦争は人間が起こすのですからね。

現実には、キリスト教国においても争いは起こります。迫害も起こります。宗教間の対立もおなじです。

そのようなことは、わたしたちが神から離れて自己中心に生きているからと言えます。

ある面、そういう意味で避けられないことかも知れません。

それでも、希望を捨てずに、クリスチャンとしては、わたしたちが住む社会を、暴力を憎み、暴力を排除するそういう社会に導いていくよう、小さくても一人ひとりが「罪を憎んでも人を憎まず」という心がけで、毎日を御霊の助けを願いなが、祈りながら過ごすことが必要かと思うのです。暴力は暴力しか生みません。

●同41節.だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。

●同42節.求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」

「求める者には与えなさい」という言葉で、イエスが無条件で制約なしに与えることを求められるのは、イエスが「だれでも、求める者は与えられる」(マタイの福音書7章8節)という無条件の恩恵の世界に生きておられるからでしょう。もちろん、それは神の支配する世界です。

そのような無条件で良いものが戴ける恩恵の世界に生きる者は、自分に求める者があれば、無条件で与えることが当然であるという考え方でしょう。
「二ミリオン行け」というのも、自己のない他者に従う消極的な姿勢がみられますが、そこには、積極的に誰にでも無条件で与えるという恩恵の世界の中での生き方をみることもできます。

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