祈るときには(2)(マタイ6章)
ここでは、マタイの福音書第6章10節から15節までを読みたいと思います。
マタイの福音書第6章
●10節.御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。
「御国が来ますように。御心が行われますように、・・」ですが、この聖句の「御心」とは、神の人類救済のご計画が成就することでしょう。
「御国が来ますように」ですから、神の国のように神が支配される御国がこの世に成就しますようにということでしょう。
簡単にいえば、神の支配が地上にも行われますように、ということでしょう。
このようにして祈られたイエスの神の支配の成就は、当時のユダヤ教で待望されていたイスラエルへの救い主の待望とは異なります。
イスラエルが待望していたメシアは自分たちに救いをもたらす、ユダヤ人のための神でした。
もちろん、旧約聖書はそういう神だけではなく、全人類の救いの神をも語っていますが、ユダヤ人はローマ支配下に置ける圧政のために苦しんでいましたから、その状態から解放されることを強く望んでいました。
そうですね、ダビデ王国のころの再来を望んでいたのでしょう。だから、当時ユダヤ人が待望していたメシアは自分たちに救いを持ったらすユダヤ人のためのメシア(救い主)でした。
イエスの福音は、人類全体に対する福音でした。「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ。」(ルカの福音書第4章43節)と言われています。
そして、その福音とはイエスがこの世に来られることによりこの人間社会に「神の支配」が実現したことの告知でありました。
イエスの中に来ている「神の支配」とは全人類に対する「恩恵の支配」です。
特定の国の地位とか土地をこの世の権力者が支配することではないのです。
イエスの十字架の死は「恩恵の支配」の宣教を貫くために、イエスが命を捧げられた出来事であり、義なる神が「恩恵の支配」を貫かれるために必要な贖罪の完成であったのです。
十字架はイエスが命をかけて祈られた「父よ、あなたの支配が来ますように」という祈りであったのです。マタイの福音書第6章10節の祈りはまさにそのための祈りであると思います。
なお、聖書が「天」と言うときは、「空」(そら)のことではなく、地上の自然界や人間界に対して、霊的諸存在の世界を指しているということです。
したがって、神や聖なる諸霊が住む「天」において神の名があがめられ、神の支配が確立し、神の意志が実現しているように、地上の人間界でもそうなりますようにという祈りになるのではないでしょうか。
「地の上にも」の地上は当然わたしたちが住むこの世界のことで、この世界は時間の中の世界。それに対して「天」は時間を超越した無限の世界のことでしょう。
時間を超えた世界では、時間の中で為されたすべての神の業が完成し、時間の中で与えられた啓示がすべて現実となって実現しているのです。
神の名はあがめられ、神の支配は確立し、神の意志は完全に実現している世界です。それは終わりの日の終末の事態です。
そうすると、この祈りは、終わりの日の途中(裁きまでの)を生きるわたしたちの中に、時間のない世界で実現していることが、今ここで実現しますように、という祈りになります。
●11節.わたしたちに必要な糧を今日与えてください。
この必要な糧とは何でしょうか。この糧はパンとも言われています。パンは、わたしたちが食べる食物一般を代表する語ととらえたいと思います。
わたしたちが生きるのに必要なパンをお与えくださいということになります。
「必要な」ですから当然派生して明日のパンも含む意味もあると思います。
ここでは、このパンを食物のパンではなく、聖霊のパンと解釈する人もおられます。
なぜなら、マタイは主の祈りの前置き(6章8節)の中で「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」とあるからです。
だから、必要なものは祈らなくても当然与えてくださるから、祈らなくては得られないものは「聖霊」です。
そうすると、ここの「必要な糧」は祈らなくては貰えないものですから、「聖霊」ということになります。
主の祈りは、この後の「思い悩むな」(マタイの福音書第6章25節から)の個所をも併せて考えると、ここは生活上の必要(食物の糧)は思い煩うことなく主に委ねて、ひたすら霊的・終末的現実である神の国を祈り求めて生きる者の祈りと考えるべきではないでしょうか。
明日のためのパンとは、終わりの日の裁きの時の命を養うパン、すなわち聖霊のことでしょう。
●12節.わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。
人間は神の被造物として、神に対して造られた目的に沿って生きる責任を負います。
「負い目」とは、神に対する負い目、負債とも訳されています。負債は決算を前提とします。決算の時に負債が残っている者はその負債を清算する責任を問われることになります。
人間は自分で存在しているのではありません。目的があって創造され、存在しているのです。
ですから、わたしたちを存在させている方から「どのように生きたか」と問われるならば、それに答えなければなりません。
この「答えなければならない立場」のことを聖書では「責任」と言っているのだと思います。
このように、人間は神の被造物ですから神に対して責任を負う存在であることを、イエスは「決算」をたとえとして語っておられます。
神の支配が到来する時は、神がすべての人とその人の生きざまを決算される日です。
その日、各人は生涯における行為だけでなく、言葉や心の中の思いまで神の前にさらけ出す、すなわち、「決算書を提出する」ことになるのです(マタイの福音書第12章36節)。
わたしたちの決算書が厖大な赤字であり、聖書では、その膨大な赤字は自分の行いでは清算できないと言っています。
その膨大な赤字は自分の行いをもって埋め合わせができると考えている宗教もあると思いますが、キリスト教は行いでは埋め合わせができないと教えています。
キリスト教のいう罪は行いの罪ではなく、それは人間の神に対する在り方そのものを指しているのです。
つまり、神から離反して自分勝手に、自己中心的に生きていることなのです。アダム以降その状態が今日まで続いています。
人間は傲慢にも自ら存在しているものとし、自分を存在させている方を不要としているところに問題があるのです。
もちろん、確信犯かどうかでその罪の重さは違うと思うのですが、いかがでしょうか。
そのようにわたしたちは創造主である神に対して罪を犯しているのですから、罪の許しの権限は、創造主である神にあるのです。
わたしたちの罪を許せるのは、神だけです。
宗教祭儀などのように行いをもって罪の許しを請う宗教がありますが、道徳とか宗教が求める、いわゆる良い行いといわれるものは、人間の努力にかかっていますから、神の恩恵を不要とし、戒めを守れる人は守れない人を軽蔑し傲慢を生みます。
この傲慢こそ神がもっとも忌み嫌われる罪なのです。行いで裁くとその結果は、このように罪を生み、その裁きが絶対的に平等とは言えないのです。
だから、決算(最後の裁き)において「義とされる」のは、戒めにかなう行為を行ったかどうかではなく、ただ神の憐れみと恩恵にすがって生きたかどうかということだと思うのです。
ところで、この12節の祈りは、なんだか、わたしたちも自分に負債(罪)のある者を赦しましたからわたしたちの負債(罪)を赦してくださいと言うように取ることができますが、どうでしょうか。
「他者の負債(罪)を赦す」ということですから、人間が人間を許す、それも行いを条件としているようでおかしいですね。
それは、既にイエスの十字架死でわたしたちの罪は赦されているという前提の上で、そうであるから他者の罪を赦しますということだと思うのです。それなら意味が分かります。
あなたがたはすでに無条件で罪を赦されているのだから他者の罪も無条件で赦しなさい、ということですね。
それでも赦さないならば、わたしもあなたの罪を赦さないと言っておられるのでしょう。
だから、マタイは6章14節・15節で「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。
しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない」とイエスの言葉を置いているのですね。
多くの宗教は神に受け入れられように戒律を守って清い者になるように求め、献げ物をして神に喜ばれるように努めることを求めます。
それに対して、イエスは自分の清さとか献げ物は一切求められません。ただ、神の赦しだけが神と人との関わりを可能にすると教えています。
なお、献げものとして、教会では十分の一の献金を求められますが、献金は行いです。
だから、献金は神の恩恵を得るための条件ではありません。伝道者を養い、礼拝場所を設けるための献金です。
キリストにある者は、キリストの十字架によって無条件に赦されているという恩恵の場に生きる者として、人を赦すことによって恩恵の場にとどまり、来るべき決算の時にも恩恵によって(すなわち、赦されることによって)栄光に与ることができると言うことだと思います。このようにキリスト教は受け身の宗教です。
人間側でできることは、イエスの言葉を受け入れて、心に留める以外に何もないのです。
●13節.わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。』
●14節.もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。
●15節.しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」
13節の「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。」ですが、この「誘惑」の意味を調べて見ますと、テストすると言う意味だそうです。
具体的には、肯定的な意味ではその人の信仰が本物であるかどうかを試して鍛えるという「試練」の意味と、否定的な意味では信仰を捨てて誤った道に引き込もうとする「誘惑」という意味の両面があるということです。
イエスも、荒野で四十日間悪魔の誘惑(マタイの福音書4章1節から)にあわれ、また、ゲッセマネでも十字架を前にして悪魔の誘惑(マルコの福音書14章32節から)に苦しまれました。
イエスは、十字架を前にしての苦しみもありましたが、この罪にもがく人間社会の中に罪のない神の子イエスが来られたのですから、イエスは地上におられた間は、罪への誘惑に苦しまれたと思います。
そこでイエスは父の御心に委ねる、つまり、祈りの最後に「御心に適うことが行われますように。」と祈られて、誘惑に打ち勝ち、試練を乗り切られました。
ルカの福音書第11章4節の「わたしたちが誘惑に遭わせないでください」という祈りは、日常の信仰生活において人生の様々な種類の誘惑と試練の中を生きるキリスト者の真剣な祈りだと思います。
祈りの言葉に悲壮感さえ見受けられますが、迫害と誘惑、差し迫った終末の場におかれたその時代の信徒たちの顔が目に浮かびます。
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