姦淫してはならない(マタイ5章)
今回はマタイの福音書第5章27節から30節です。共観福音書の参考個所は、マルコの福音書第10章11節から12節とルカの福音書第16章18節です。
マタイの福音書第5章
●27節、「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。
●28節、しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」。
マタイのこの個所は、山上の説教の中にあります。山上の説教は御国の福音とも言われています。神がおられる御国と同じように、イエスの御霊、聖霊の働く場において初めて成就する姿だと思います。
姦淫という行いだけではなく、その行いを導いた思いも罪だというのです。
ここの「姦淫するな」という戒めは、モーセの十戒の中にもあります。この戒めは「殺すな」という掟と並んで、イスラエルの民にとって最も基本的な神の命令であると思います。
破ると死罪をもって罰せられる重大な罪であったということです。
姦淫の罪を犯した二人は男女共に死に定められました(レビ記20章10節)。
では、一口に姦淫と言いましても、種類はいろいろとあります。どのような姦淫が死罪になったのでしょうか。
調べてみますと、イスラエルにおいての姦淫の定義は、「結婚している女性または婚約中の女性が夫以外の男性と性関係をもつこと」ということです。
蛇足ですが、日本でも江戸時代から明治憲法(終戦)までは、このユダヤ教の「姦淫」と同じで、主として女性の不義密通を指していたと聞いています。
したがって、妻のある男性が独身女性と性関係をもってもそれは姦淫ではないのです。
レイプによる場合は、ケースによって罰則はあるということですが、死罪となる「姦淫」ではなかったということです。
とくに、相手の女性が奴隷の身分であるとか、非ユダヤ教徒である場合は、金銭による補償ですんだようです。
イスラエル社会が強い父系社会であったからこのような勝手な規定ができたのでしょうね。これは、おそらく夫の家系の存続を、ひいてはイスラエル社会の基盤を守るためにはどうしても必要であったのでしょう。
言い換えると、イスラエル民族の宗教的純潔を守るために定められた戒律だと思います。
申命記第22章22節に「男が人妻と寝ているところを見つけたならば、女と寝た男もその女と共に殺して、イスラエルの中から悪を取り除かなければならない。」とあります。
宗教的純潔を保つために設けられた戒律と書きましたが、当時イスラエルは弱小国家で、まわりの国は強国ばかりでした。
国家の存続をかける戦いの連続でした。戦いに勝っても何を戦利品にするかは厳しく選別されました。
敗戦国の民族、異邦人(イスラエル人以外の民族)の妻をめとると異邦の神が入り込み宗教的純潔は保たれません。戦利品も同じです。他国の女性を妻に迎えることも簡単ではなかったようです。
また、イスラエルは神ヤハウェから与えられた契約の上に存立しています。
そのイスラエルがヤハウェ以外の神々を拝むことは、契約の与え手であるヤハウェに対する最も根本的な背信行為になります。
異邦の神を拝むことはイスラエルの存立そのものを脅かす行為となります。
預言者は、ヤハウェの神とイスラエルを婚姻の関係をたとえにして語りました。そう、神を夫にたとえてイスラエルを妻にたとえたのです。
結婚の契りに対する忠誠、とくに妻(イスラエル)の夫(神)に対する貞潔が、イスラエルでは特に重視されるようになったのは、当然ではないかと思います。
●29節、「もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。
●30節.もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである」。
マルコ福音書(該当箇所は第9章43節から47節)も、片手を切り捨てよとか、片目をえぐり出せという同じような表現を用いています。
マタイの福音書は、マルコの福音書から目と手の喩えだけを取り出して、この表現を心の中での姦淫を指摘する言葉の後に置いています。
それでは、目をえぐりだし、とか手を切り捨てという厳しい警告の言葉は、どういう意味なのでしょう。比喩を用いていると思いますので、その言葉のままでないのは明らかです。
マルコの福音書が「罪への誘惑」(9章42節以降)に対する警告の戒めの中に置いています。それをマタイの福音書はとくに姦淫に関する戒律の後に置いたのです。
マタイの福音書が、この厳しい言葉を姦淫の罪の後に置いたのは、心の中での姦淫だけでは、ファリサイ派ユダヤ教と明確に違うことを強調するためにそのようにしたのではないかと言われています。
もちろん、比喩ですから、この言葉を文字通り実行すべき要求と受け取るべきでないと思います。
文字通り実行すべき言葉として受け取れば、教会の中は、片目片手のない身体障害の男で溢れかえります。
生身の人間であれば出来そうもないことです。恐ろしくてクリスチャンになるような人はなくなります。聖職者などとんでもないことです。
理屈を言えば、片目片手を捨てたからといって、残った目で心の中の姦淫を犯さなくなる保証はなにもありません。
したがって、この言葉は象徴的な言葉として理解したいと思います。
それは、心の中で姦淫の罪を犯すことは、イエスの弟子にとって、もっとも価値あるものも放棄する覚悟が必要である、・・だから御霊にゆだねなさい・・という理解です。
また、目や手に「左」ではなしに、「右の」という形容詞がついているのは、考えてみると、女性を見て心に欲情を起こすのは、女性を右の目・左の目どちらで見ても同じです。
それにも拘らず「右の」目と特定されるのは、ユダヤ教の伝統では「右」がより一層価値の高い側とされていたからではないかということです。
「右の目、右の手」というのは、人間にとって必要で大切な二つのものの中で一層価値のある方を意味するということです。
それをも切り捨てる覚悟が、ここで求められているのです。それぐらいの覚悟がないと、イエスの教えを守ることは難しいということでしょう。
聖書の言葉を、字義どおりに解釈すると、極端になりとんでもない間違いを犯してしまうことがあります。
聖書の言葉を字義どおりに解釈する聖職者の方もおられると聞きますが、字義通り解釈するのは問題があるのではと思います。
もちろん、解釈には難しいところもありますが、思い込みに陥らないように正しい知恵を与えて下さるように祈って読むようにしたいと思います。
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