イエス・キリストの誕生(3)
マタイの福音書第1章(インマヌエル)
●22節.このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
●23節.「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
イエスは「自分の民を罪から救う方」とマタイは書いています。
そして、同時にもうひとつの名、イエスの本質を表す名として、預言者イザヤの書7章14節から取られた「インマヌエル」という名を与えています。
イザヤ書(7章14節)は、イザヤの預言(イザヤ書7章1から16節)の中の一節で「それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。」です。
マタイはこうして、聖霊によって生まれたイエスは、イザヤが予言したとおり、「インマヌエル」、すなわち「神が我々と共におられる」という現実をもたらす方となったことが強調されています。
マタイはこの視点から福音書において、イエスの生涯を描いているのでしょう。
イエスが語られる言葉は、イエスと共におられる神がイエスを通して人間に語られる言葉であり、イエスがなされる業は、神がイエスを通してなされる業だということでしょう。
だから、マタイの福音書の最後第28章20節に「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」というイエスの言葉を持って、1章23節で始まったマタイの福音書は締めくくられるのでしょう。
これが、マタイが福音書において言いたかったことなのでしょう。
もちろん「あなたがたと共にいる」というのは、復活されたイエスは聖霊となって自分たちと共にいてくださり、自分たちの中に働いてくださっているという認識で、初期の弟子たちの共通の信仰内容であったと思います。
弟子たちにとって、復活者イエスが共にいてくださるとは、「神が我々と共におられる」ことと同じことでもあったのでしょう。
マタイは、イエスの十字架死と復活、聖霊降臨と現実に体験している共にいてくださるイエス、これらの現実を体験して、その上で信仰を持ってこの福音書を書いているのです。
これがキリスト教の核心だと思います。福音書を読む上でこのことは非常に大切かと思います。
マタイの福音書は、福音書の前置きのイエスの誕生物語の中に「インマヌエル」としてのイエスを書き、福音書の最後の言葉と対応させているのでしょう。
マタイの福音書第1章
●24節.ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ
●25節.男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。
イエス・キリストの誕生物語の最後の節です。
やはり最初に書きましたように、マタイはヨセフの説明で締めくくります。
ここでは、ヨセフは天使の言葉に従いマリアを妻として迎え入れたこと、イエスの誕生まではヨセフはマリアと関係をもたなかったこと、イエスの誕生にヨセフが関わっていないことの三つを確認しています。
そして、ヨセフが天使の命令に従って、誕生の後「イエス」と名付けたことだけが語られています。
ちょっと蛇足ですが、ここの「男の子が生まれるまで」の解釈につき、カトリックとプロテスタントの解釈に違いがあるそうです。
その争いは古代教会以降からとも言われています。カトリック教会は、マリアの永遠の処女性を擁護するため、イエスが生まれた後も引き続いてヨセフはマリアと関係しなかったと解釈してきたそうです。
プロテスタント側では、イエスが生まれるまでは関係しなかったが、その後は普通の夫婦関係をもち、イエスの弟や妹たちが 生まれたと解釈してきたということです。
そうすると、カトリックの解釈では、イエスに弟妹はありえないのですから、マルコの福音書第6章3節の「この人は、大工ではないか。
マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」この聖句の内容と違ってきます。
明らかにイエスの兄弟、姉妹たちをさしており従兄弟、従姉妹を指すとは解釈できません。
もともとマタイはイエスの誕生にヨセフが関与していないことを主張しているだけで、イエス誕生以後のことは何も書いていません。
したがって、マリアは生涯処女であったというのは、この福音書を読む限り少し無理があると思います。マリアの永遠の処女性と無原罪の教理は何を根拠とするのかわたしには理解できません。
なお、マタイは伝承として誕生物語があってそれをもとに福音書でイエスは何者かを語ったのでしょう。
誕生物語は作り話だと言われる方がおられますが、言えることは、確かに誕生物語は物語風に書かれていますが、著者マタイはイエスの教えを直接受け、なされた奇跡を直接見て体験し、イエスの十字架の出来事ならびに復活、聖霊降臨を体験した上で、聖霊に満たされた中でイエスが何者かを確信して、信仰でもってこの福音書を書いているということは忘れてはいけないと思います。
誕生物語の伝承は、イエス誕生の実際の経緯はマリアしか知らないはずですから、おそらく弟子がマリアからイエス誕生時に何らかの不思議な出来事があったことを聞き、語り継がれるうちにこのような伝承になったのだとわたしは思います。
マタイの福音書が書かれたときは、イエスの誕生時を知る人とかマリアを知る人が大勢生存していたと思います。
そのような状況で、この誕生物語が受け入れられたということは、一字一句事実通りではないとしても、信じるに値する十分な根拠があったのだと思います。
重要なのは、マタイとルカがイエスの誕生物語で何を語りたいかと言うことではないでしょうか。
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