イエス・キリストの系図(2)(ルカ3章)
ここではマタイの福音書に並行するルカの福音書を見てみたいと思います。
聖句はルカの福音書第3章23節から38節です。
●23節.「イエスが宣教を始められたときはおよそ三十歳であった。イエスはヨセフの子と思われていた。ヨセフはエリの子、それからさかのぼると、
●24節.マタト、レビ、メルキ、ヤナイ、ヨセフ
●25節.マタティア、アモス、ナウム、エスリ、ナガイ
●26節.マハト・・・ナタン、ダビデ、エッサイ・・・・・・・
●34節.ヤコブ、イサク、アブラハム、テラ、、ナホル・・・・
●38節.エノシュ、セト、アダム。そして神に至る。」
イエスが公的に活動を始められたときは「およそ三十歳」であったとされています。
現在イエスの誕生はヘロデ大王の最後の年になる紀元前四年と見られていますので、この時イエスは三二歳になっておられたことになります。イエスの生年月日が不確かであったので「およそ」というような表現になったのでしょう。
そこに、23節に「ヨセフの子と思われていた」という表現がありますから、イエスの誕生に何か問題があったのかもしれません。
ユダヤ人の社会では男子は普通「誰それの子」という呼び方で紹介されると言うことですが、「と思われていた」という言葉を使っているのがみそですね。
この言葉は、実際はそうでないのだが、世間ではヨセフの子として通っていたという意味でしょうか。
イエスは聖霊によって身ごもって、マリアから生まれたのですから、婚約者のヨセフはイエスの誕生には関与していません。ヨセフの血は入っていないということです。
しかし、ヨセフはマリアを妻として迎え、イエスを認知し、自分の息子として受け入れて育てます。このことによって、イエスはダビデの子孫であるヨセフの家系につながる者となり、ダビデの子孫という系図が成立します。
ルカは「と思われる」と書くことにより、そこらの事情と世間での実際の呼び方のつじつまを合わせたのではないかと思うのですが、いかがでしょう。
23節の「およそ三十歳」という表現も同じ理由だとわたしは考えています。
というわけで、イエスの処女降誕を問題視する方がおられますが、わたしは十分あり得ることだと思っています。
少なくとも、当時はそのように信じられていたのだと思います。
イエスはユダヤ教社会でヨセフの子と呼ばれることにより、ユダヤ人へ福音を宣べ伝えるときに、イエスを「ダビデの子」と呼ぶことができることになります。
ルカの系図がマタイの系図と違うところは、マタイの系図がアブラハムから始めてダビデに至り、さらにダビデからヨセフに至るというように時代を降っていきますが、ルカの系図はヨセフから時代をさかのぼっています。
ルカの系図もダビデとアブラハムを含んでおり、イエスがダビデの子、アブラハムの子孫であることを主張することでは一致しています。
どの系図も、七を周期として、七の倍数を好んで用いています。ルカの系図も七の倍数を数組用いて合計で七十七人の人名をあげています。
二つの系図は、アブラハムからダビデまでは一致していますが、ダビデからヨセフまでは違っています。この違いについては様々な説がありますが、その理由はわかりません。
理由はわかりませんが、いつでも訂正できるのに訂正をせずの今日まで残ってきたということに驚きを覚えます。福音書のもとの姿を残すことにいかに注意がはらわれたかということがよくわかります。
しかし、そのことは重要ではなく、このような系図を作成した著者の意図を理解することが大切かと思います。
先にも書きましたが、純粋に人間の家系の系図としての正確を求めるべきではないと思います。
そうでしょう、そうであれば、神という言葉など出てきません。系図の登場人物も、歴史上実在した人物はアブラハム以降だと思います。
マタイの系図がアブラハムから始まり、イエスがアブラハムの子であり、ダビデの子であることを主張する意図が明白であるのに対して、ルカの系図はヨセフの先祖をさかのぼり、ダビデとアブラハムを経てアダムに至り、さらに「神に至る」としています。
ルカがヨセフの系図を、ダビデとアブラハムを超えてアダムに、さらに神にまで至らせているのは何を主張しょうとしているのか、その意図が問題になります。
ルカは異邦人に向かってこの福音書を書いています。
それで、系図をアダムまでさかのぼらせたのは、わたしは、イエスが単にユダヤ人に与えられた約束を満たすために現れた救済者ではなく、世界のすべての人類を救済するために来られた方、アダムに与えられた約束を成就するために来られた方である主張していると理解します。
アダム(人間)は神から出た者ですから、イエスもアダムの子孫とすることで、先祖をさかのぼればわたしたち人間と同じ神に至るとします。
だから、イエスは同じく神から出たアダムの子孫であるすべての人間を救う方であるということでしょうか。
系図全体としては、アダムから出るすべての人間の中で、イエスはアブラハムから始まりダビデを経てヨセフに至る生粋のユダヤ人の家系に属しているという事実です。
それにしてもルカの福音書ではイエスの系図が福音書の最初ではなくて中途半端なところ、つまり、第3章の最後に書かれていますね。系図は後から挿入したのでしょうか。
それとも、2章以前(主にイエスの誕生物語です)は後から挿入したのでしょうか。
ルカの福音書は異邦人(ユダヤ人以外)に、とくに理論好きのギリシャ人に書かれたと言われています。
したがって、イエスの系図がアダム(人間)から始まるのは納得できます。イエスの救いのみ業はユダヤ人だけのものではないということですね。
1章5節から2章は、いわゆるイエスの「誕生物語」と言われています。
ユダヤ教的な思想の中で書かれています。旧約聖書からの引用も多い。
この事実は、「誕生物語」が異邦人(ユダヤ人以外)特にキリシャ人に書かれているルカの福音書と相いれないものがあります。
したがって、1章5節から2章は後で組み入れられた可能性があると言われていますが、確かなことは分かりません。
しかし、経緯はともかく、この「誕生物語」、特に処女降誕もルカの福音書の不可分の一部であると思います。
イエスをアダムからその子孫である全人類の神の救済史を担う神の子として描こうとする意味がそこにはあったのでしょう。
どちらにしても、マタイの福音書とルカの福音書の系図の細かい違いはさておいて、作成されたのは、系図そのものを正確に描くことに目的があるのではなく、イエスと言う人物を、イエスの出来事を意味付けるために作成されたものだと思います。
そういう意味で、系図が約2000年前にイスラエルのナザレで実際に生きていたイエスという人物が何者であるかを語っているのと同じように、福音書もイエスという人物が何者であるかを語っているといえます。
福音書著者マタイとルカはこの系図で何を語ろうとしているのか,その意図を正確に読み取りたいと思います。
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