イエス・キリストの系図(1)(マタイ1章)
聖句はマタイの福音書第1章1節から17節です。
共観福音書の並行個所はルカの福音書第3章23節から38節です。
●1節.「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図
●2節.アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟た
ちを
●3節.ユダはタマルによって・・・略・・
●5節.サルモンはラハブによってボアズを、ボアズはルツによってオベトを、オベト
はエッサイを、
●6節.エサイはダビデ王をもうけた。・・・・
●16節.ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイ
エスがお生まれになった。
●17節.こうして、全部合わせると、アブラハムからダビデまで十四代、ダビデからバビロンへの移住まで十四代、バビロンへ移されてからキリストまで十四代である。
この「系図」と言う言葉は、ギリシヤ語原典では「起源の書」と言う意味だそうです。
起源と言いますと思い出すのが、旧約聖書の創世記の天地創造の天地万物の起源です。
マタイは、このように表現することによって、この福音書で語ろうとするイエス・キリストの物語は、天地創造や人間の歴史の物語に対応する重要なことだと語っているのだと思います。
だからこの系図は、事実をそのまま記載したものではなく、作者の意図に沿って書かれたものであるということです。
もちろん、旧約聖書の創世記と関連付けることにより、イスラエル民族に語っているということでしょう。
次に、イエス・キリストが「アブラハムの子」であると言っています。
ユダヤ人はみなアブラハムの子孫ですから、イエスが「アブラハムの子」であることにわざわざ言及するのはどういう意味でしょうか。
それは信仰の子、つまり、イエスがアブラハムに与えられた神の約束を実現する方であるという信仰の成就者であることを示しているのでしょう。
そのアブラハムに対する神の約束とは、「地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」(創世記第12章3節)でしょう。
続いて、マタイはイエス・キリストがダビデの家系であると言っています。
それは、当時イスラエルを救うメシアはダビデの家系から出ると、広くユダヤ人の間で信じられていたからでしょう。
パウロがローマ書第1章3節で「御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ・・」と書いている通りです。
マタイの福音書がユダヤ人読者向けに書かれていますから、そういうことです。
マタイはこの系図によって、イエス・キリストが、この「イスラエルを救うメシアはダビデの家系から出る」という約束を成就する方であると主張しているのだと思います。
したがって、イエスの言葉を信じる者はイスラエル人であろうがなかろうがすべてアブラハムの子なのです。正確にいえば信仰の子なのです。
マタイはイエス・キリストを「アブラハムの子」として示すことで、福音がユダヤ人だけでなく、地上の氏族はすべて、つまり、イスラエル人はもちろん、異邦人(ユダヤ人以外)すべてにも与えられていることを示唆しているのだと思います。
こうしてこの福音書の最初の1節は、マタイの福音書第28章19節の「だから、あなたがたは行って、すべての民(異邦人を含むすべて)をわたしの弟子としなさい。」に対応するのでしょう。
なお、マタイは他の個所では「イエス」という名称を用いていますが、この節では「イエス・キリスト」という名称を用いています。
それは、「キリスト(メシア、救済者)としてのイエス」の「起源の書」(一節)とか「誕生の次第」(18節)を語っているということでしょう。
2節から17節で「アブラハムはイサクをもうけ、・・・十四代である。」、とあるようにマタイはアブラハムからヨセフに至る系図を書いています。
この系図でイエス・キリストの出現はイスラエルの歴史の結果であると主張し、旧約聖書と新約聖書を結び付けています。
それは、アブラハム以来、神がイスラエルの歴史の中に働いてこられた流れの到達点として、イエスがお生まれになったことを宣言します。
すなわち、アブラハムから始まるイスラエル二千年の歴史は、イエス・キリストの出現によってその意義を全う、成就するということです。
なお、マタイの福音書第1章18節でマタイはイエス・キリストの誕生の次第として、イエスは母マリアが聖霊により身ごもってイエスを生んだとしています。
そうすると、ヨセフはイエスの誕生に関わっていないことになるのです(なお、これには色々と深い意味があるのですが、別の投稿文「創世記よもやま話(3)」に詳しく書きましたからそれを参考にしてください。)。
ところが系図はヨセフの系図になっているのです。
このヨセフの系図は、ユダヤ人社会は男系社会で系図は男性のみで構成することになっていますので、イエスが「ダビデの子」であるためには、イエスの父親がダビデの家系でなければならないのですが、それでも、イエスがヨセフの実子でなくても、ヨセフがイエスを子と認知すれば、イエスはヨセフの家系を継ぐ者として、ダビデの家の出身となると言う理屈でしょう。
第1章20節の天使の言葉「ダビデの子ヨセフ、恐れずに妻マリアを迎えいれなさい。・・」は神がそのことにお墨付きを与えたということでしょうか。
どちらにしても、この天使のお告げによりヨセフがイエスを正式なダビデ家の子として受けいれたことを物語っています。
こうしてイエスのアブラハムの子、ダビデの子孫という血統書が出来上がりました。
次の問題点は、この系図には、タマル、ラハブ、ルツ、ウリヤの妻という四人の女性の名があげられています。
女性を人として扱われない男系社会の系図で、子を産んだ女性の名があげられるのは異例のことだと思います。なぜこの四人の女性の名があげられているのでしょうか。
いろいろと説があると言うことですが、四人の女性の共通項は、四人ともユダヤ人でなく外国人女性であるということです。
だから、メシアの家系に外国人の血が入っていることを示して、神はイスラエル以外の異邦人とか女性をも顧みる神であることを語っていると見るのが自然だと思うのですがいかがでしょうか。
そのようなユダヤ人社会の因習に囚われない作者の意図がうかがわれます。
三つ目の問題点は、マタイは、アブラハムからダビデまで、ダビデからバビロンへの移住まで、バビロンへ移されてからキリストまでという三つの区分を、それぞれ聖数七の倍の一四代という数でまとめています(17節)。
この数え方は事実と一致しないということです。
解説書によると、同一人物を重複して数えたり、逆に違う人物を一人に数えたり、王名が三代も欠落していると書いてありました。
そういうことですから、系図に正確さを求めるべきではなく、著者の信仰の意図を探るべきだということでしょう。
すなわち、七で区切るのは重要な意味があって、それは、当時ユダヤ教の一部には、歴史の中の神の働きを、年数を区切って物語る風潮があり、そのさい、七年(週年で数えますから、七年というのは丸七年を終えてという意味でしょう。)を単位として数える傾向があったということです。
マタイは、イスラエルの歴史の始まりであるアブラハムからダビデ王国の成立までを七の倍の一四代と数え、ダビデ王国がバビロン捕囚で滅びるまでを同じ一四代とすることで、次の出来事、すなわちダビデ王朝の回復を担うと約束されたメシアが到来するのも一四代後であると示唆した上で、捕囚から一四代目のイエスの誕生を語っているのです。
こうして、イエスの誕生がまさにメシアの到来にふさわしい神の時であることを告げているのでしょう。
このようなことは、ユダヤ人信徒にとっては必要でしょうが、ユダヤ人以外の信徒にとってはあまり必要のないものです。
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