ガリラヤで伝道を始める(マタイ4章)
マタイの福音書第4章12節から17節を読みます。
●12節.イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。
●13節.そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。
●14節.それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。
●15節.「ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、
●16節.暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」
●17節.そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。
マルコの福音書とルカの福音書にも同じ個所がありますが、マタイの福音書が最も詳しいのでマタイの福音書を中心に読んでみたいと思います。
共観福音書、つまりマタイ・マルコ・ルカの三つの福音書のイエスの宣教の初めのころを、つまり、ガリラヤでの出来事を比べてみますと、マタイだけがイエスの出現が旧約聖書イザヤ書の預言の成就であることを書いています。
これはマタイの福音書がユダヤ人あてに書かれているからイエスの出来事が旧約聖書の預言の成就であることを強調する必要があったからではないかと思われます。
このように書けばこじつけかと思われますが、旧約聖書にはイエスという名前こそでてきませんが、預言の中にはイエス出現を預言していると言っても不思議ではない箇所が他にも数多くあります。
その余りにも正確な預言は驚くばかりです。実際にイエスの身に起こった出来事を当てはめてみて初めて預言の意味が理解できる箇所もあるのです。
さて、イエスはイスラエルのガリラヤから宣教を始められました。
ガリラヤの時代背景を見てみますと、イスラエル王国はソロモン王が死んだあと南イスラエルと北イスラエルに分裂しましたが、北イスラエル王国はアッシリアによって紀元前597年ころ滅ぼされました。
そのときに王国の中心的な人々はガリラヤからアッシリアにつれて行かれました。
残された下層階級の農民たちはそのままガリラヤに残されたのですが、その残された人々がガリラヤでユダヤ教の伝統を守ってきたということです。
したがって、ユダヤ教主流派が支配するエルサレムとは異なる風土と宗教的伝統を受け継いでいたと思われます。
イエスはこのような特徴を持ったイスラエルのガリラヤ地方のナザレと言うところで生まれ幼少期を過ごされました。
イエスが生まれた当時のガリラヤの時代背景は、ローマ帝国とユダヤ教の神殿国家体制の二重の権力の支配下で、社会的、政治的、宗教的な圧迫を受けて被差別地域としてのそこに住む民は苦しみの中にいました。
その上ローマの属地領主である暴君ヘロデ・アンティパスの支配下でもありました。
ガリラヤの農民たちは、ローマ帝国によって搾取され、ユダヤの貴族や大地主や大商人に土地を奪われて生活は困窮していました。
生きるために農作業の傍ら漁業を始めあらゆる仕事をしていたと思います。
エルサエムのユダヤ教主流派から差別を受け、搾取と抑圧にために希望のない暗闇に沈んだ地域でした。
そのような地域からイエスが伝道を開始されたのは、旧約聖書イザヤ書第8章23節「・・異邦人のガリラヤは、栄光を受ける。」、同第9章1節「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」の預言が成就するためでした。
この聖句の栄光というのは救いがもたらされるということ、光というのは、もちろんそういう暗闇に沈む地域に希望をもってきたイエスのことを指すのでしょう。
なぜ救い主がイエスだと言えるのかという質問には、イエスの教えと十字架と復活、その後のキリスト教の2000年の歴史が証言しています。
「異邦人のガリラヤは、栄光を受ける」とあるのは、ガリラヤに住む多くの異邦人(ユダヤ人以外の人々)にも、すなわち、救いはユダヤ人、異邦人に関係なく暗闇の中に生きるガリラヤの農民の全体の中にもたらされると言う意味だと思います。
ガリラヤは、このようにユダヤ人と異邦人が混在する地域であったのです。
イエスは、この地域を中心にして、教えを広めるために伝道を開始し、その後で、エルサレムへ向かい、そこで受難(十字架)を迎えることになります。
その教えの内容は、「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(マタイの福音書第4章17節)と述べ伝え始められたのでした。
真っ暗な闇の中にいるガリラヤの農民の中にイエスという光が差し込んだのです(マタイの福音書第4章16節)。
イエスの出現が、旧約聖書の預言が実現したことだと言っても、庶民の受け取り方は一様でなく様々だったと思います。
もちろん、預言にある通り、イエスを救い主メシアと信じる人たちが、ユダヤ人の中にも異邦人の中にもいたと思います。
しかし異邦人は別にして、ユダヤ人の中にはイエスの出現がこの旧約聖書イザヤ書の預言の成就だと聞いて、素直に喜べない人たちもいたと思います。
新しいことが起こると、人間はすぐには受け入れません。それは自分の現在の生活が脅かされる場合とか、信じることに反する場合は特にそうだと思います。
その人たちはユダヤ教を信じ、律法を守ることによって自分たちは既に救われている。
自分たちは神に選ばれた神の民で、光は自分たちの中に与えられると信じている人たちでしたので、ガリラヤの貧しい大工の息子が、旧約聖書で預言する救い主だと言っても簡単には信用できなかったでしょう。
それに、そのような人々はガリラヤの民の中でもユダヤ教を独占していた支配階級の人々であったのでしょうから、既得権益に守られた人々です。
その既得権を破壊するような、全く反対の価値観を持つイエスの教えには当然反対します。
イエスの伝道は「神の国は近づいた」で始まります。
ここで「国」というのは「王国」という意味で、この王国の樹立は、神が始められた御業ですから、「神の国」あるいは「御国」となります。
それは、イエス・キリストを地上の権力者にして支配させるのではなく、イエス・キリストを通じて、神の御霊、聖霊の働きによってこの地上を支配しようとしておられるのです。
暗闇の中に沈んでいたこの世に光りが射しこんだのです。
それは、イエスが出現されて、神が支配する神の国運動が始まったからです。
その国はどのような国なのでしょうか。おそらくそれは、神の霊、聖霊が支配し、新しい命を創造する働きが活発な国なのでしょう。その運動は来世につながる希望です。
イエスが出現された時に聖霊はイエスに働かれていました。
イエスは十字架で死に復活ののち天に昇られました。つまり、イエスが人間の罪を贖い死から復活され天に昇られた後、聖霊はイエスに代わりイエスを信じる者の上に降りました。
今もその聖霊はわたしたちの中で新しい人間を創造するために働いておられます。
イエスの出現により神の国運動がはじまりましたが、その運動はイエスの御霊、聖霊に引き継がれました。
その神の国運動(言い換えれば、聖霊が支配する国を創造する働き)は、まだ完成してはいません。今もなお聖霊はそのために働かれています。
だから、「神の国が近づいた」というのは、今この時代において、神の国への創造が始まったと言う意味だと思います。
もちろん、神の国運動とは、イエスの言葉を信じる者の集まりが広がることであり、その集団としてのキリスト者の集まりであり、キリスト教会であるわけです。
ですから、それらは聖霊によって導かれているのです。
神の国運動の中でイエスは、今満腹している人達、笑っている人達は不幸だと言われています。
それは、そういう人達はこの世で価値ある物、つまり財産とか権力とか名誉などをたくさん持っている人々だからです。
人間、財産とか権力を持つと、傲慢になり、それに頼り神を求めようとはしないものです。だからその人たちは不幸だと言われたのでしょう。
そういうものは、神の国ではいらないのです。神の国に入るのに助けになるどころか、邪魔になるだけです。
神の国に入るためには神の御霊、聖霊の働きに身をゆだねて、ひたすら神の恩恵にすがるしか道は無いのです。それがキリスト信仰だと思います。
イエスの言葉を伝える宣教は、人間個人の人生観を根本的に変え、世の中をも変えてしまおうとする神の働きです。
だから、そういう集まりである、イエスを信じる者の集まりとかキリスト教の価値観は世の価値観と180度違うということです。
富とか権力を追い求めて満足している人などは、イエスの教えが広がれば広がるほど既得権益が脅かされるので、そういう働きを嫌います。
そうすると、そういう人々は既得権益を守るためにイエスの教えに反発し、信じる者を迫害します。
そういう人たちがいる限り、神の御霊、聖霊の働きによる神の国運動はまだまだ終わることがないと言えます。
« イエス誕生その後(2)(マタイ2章) | トップページ | 誘惑を受ける(1)(マルコ1章) »
「共観福音書を読む」カテゴリの記事
- 弟子たちに現れる(ルカ24章)(2018.07.21)
- エマオで現れる(2)(ルカ24章)(2018.07.21)
- エマオで現れる(1)(ルカ24章)(2018.07.21)
- ヘロデから尋問される(ルカ23章)(2018.07.19)
- 財布と袋と剣(ルカ22章)(2018.07.19)
コメント