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2017年9月14日 (木)

イエスの処女降誕と復活(ルカ1章)

イエスの処女降誕もイエスの復活もわたしたちの常識から外れた出来事です。

これを信じることができるのか、どのように考えればよいのか、わたしなりに思うところを書いてみました。

まずイエスの処女降誕ですが、結論としてわたしはそのようなことがあってもおかしくはないと思っています。聖句は、マタイの福音書第1章20節です。

「このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。」

ルカの福音書第 1章 31・31・34・35節

「すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。」

ルカの福音書第1章34・35節

「マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」

これらの聖句は、マタイとルカの福音書のみにあるイエスの処女降誕の箇所です。

これを信じるか信じないかですが、まともに考えたらとても信じられないと思います。

どうしてこのような奇想天外なことを当時の、いや現在もですが信者は信じるのか、信じることができたのでしょうか。

ただいえることは、いくら福音書の著者がわたしの書いたことは事実だと言っても信じてくれる人がいなければ、このような物語が今日まで残らないはずです。

作文なら当然もっと本当らしく書くと思いますし、それに、この2000年間にイエスの処女降誕を信じてキリスト信者になり人生を変えられた人の数は膨大です。

作文ではそのような事態は決して起こりません。

どちらにしても、おそらく当時も今も一部のキリスト者を除いて(現在でもおなじキリスト者でも処女降誕を否定する人もあれば肯定する人もあります。)処女降誕を信じた人が無視できないほどいた、あるいはいるということです。

キリスト教団が必要あって強制的に信じるように導いたという考えもありますが、それでも作り話で人の心の中を支配できないだろうし、人は嘘を守るために自ら進んで命をかけたりはしないでしょう。

キリスト教の歴史は、殉教の歴史と言われていますからね。

それでは、イエスの処女降誕がなければキリスト教は成立しないのでしょうか。

決してそうではありません。パウロはこのように言っています。

「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。

すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。」(コリントの信徒への手紙一第15章3節から5節)

つまり、パウロは最も大切なこととして、「イエス・キリストがわたしたちの罪のために死んだこと」だと告知しています。

そして、それを信じて、復活したイエス・キリストに従うものは罪が赦され神の霊、聖霊が与えられることを約束していますが、イエスの誕生の仕方は問題にしていません。

また、処女降誕がキリスト信仰にとって外せないほど重要なことなら四福音書すべてに記載があるはずですが、記載があるのはマタイとルカの二つの福音書だけです。

ただし、イエスの処女降誕と違って死からの復活は四福音書すべてに記載されています。

イエスの復活は、父なる神のみ業ですから、神の霊、聖霊の働きです。

処女降誕と違って、復活が事実でなければキリスト教は成立しません。もちろん、弟子たちが復活したイエスに出会ったのも聖霊の働きです。

イエスは十字架に架けられて死にましたが、聖霊の働きによって復活し、神の子キリストとして立てられたのです。ですから、復活はキリスト教の根幹なのです。

したがって、言えることは、そのようにして真の神の子となった弟子たちがイエスの処女降誕を信じて福音書に記載したということです。

弟子たちは、復活したイエスの御霊、聖霊に満たされ、父なる神と一体となった状態、共におられるイエスの御霊、聖霊の臨在を実際に体験したがゆえにイエスの処女降誕を信じたのです。

著者にはナザレのイエスが神の子だと告白できる何らかの内的確信をもったのです。

福音書著者は決していい加減な気持ちで福音書を著したりはしていないと思います。

信仰をもつということは、自分の人生のすべてをそれにかけることですからね。

重視すべきことは、この処女降誕が事実かどうかよりも、処女降誕は聖霊体験により新しく生まれ変わり、真の神の子となった弟子たちの信仰告白だということです。

聖書著者は聖霊の働きにより、イエスは神の子であると信じることができた。そうであるからイエスの処女降誕も信じたのです。

そうでしょう、神の御霊、聖霊がわたしと共におられる、自分の内で働いておられるのを確信できたら(そういう状態にあるキリスト者を真の神の子と表現したいと思います)、イエスが聖霊の働きにより処女から誕生されたということも信じることができると思うのです。聖霊なんていないよと言われる方もおられますが、そういう科学的に説明できない不思議な現象がこの世界にあるのは事実です。

逆にいえば、イエスの復活の御霊、聖霊に与り、真の神の子となればイエスの処女降誕を信じることができるのだと思います。

弟子たちは神の霊、聖霊を受けることにより新しく生まれ変わりますが、それはイエスが聖霊の働きにより処女から生まれたように、弟子たちも同じ聖霊により神の子として新しく生まれ変わるのです。

キリスト教はそういうことを信じる宗教だと思います。

いろいろと書きましたが、わたしたちの命は神から来ています。そのことを信じるならば、男女の営みではなく神の働き、つまり聖霊の働きで処女マリアからイエスが生まれたといっても不思議ではありません。

そうです、生まれたのです。創造されたのではないのです。神は神の子を生むが、人間は人間の子を生むのです。人間は被造物ですからその子孫も被造物です。

次にイエスの復活について思うところを書いてみます。

イエスは死から復活されました。これもそのようなことはあり得ないということで、いろんな方がいろんな説を述べられています。

でも、わたしは聖書の記載そのままを信じたいと思います。

もちろん、イエスの復活もイエスの処女降誕と同じように神の御霊、聖霊の臨在の中で書かれたもので、聖書著者の信仰告白だと思いますが、わたしたち創造論を信じる者にとってそういう事態はあってもおかしくはないのです。

そうでしょ、最初の人アダムとエバの創造を考えればイエスの処女降誕だってあってもおかしくはないのです。

なぜなら、最初の人アダムとエバは男女の交わりにより生まれたのではなく無から神の御霊、聖霊により創造されたのです。これも霊体の物質化現象といえるかもしれません。

わたしは神を信じている創造論者ですから、アダムとエバの創造は信じるけれども、イエスの処女降誕とか復活は信じないという理屈はないのです。いかがでしょうか。

イエスの復活も処女降誕と同じく、聖霊体験により新しく生まれ変わり、真の神の子となれば、真実信じられるようになるのではないでしょうか。

聖霊はイエスの御霊ともいいイエスの復活の証となるものです。今もわたしたちの中に偏在されて、イエスを証するために働かれています。

聖霊など存在しないと言われる方もおられますが、その聖霊の臨在を実体験し、この2000年間どれほどの人がイエスを信じ、キリスト信者になったか。これは歴史的事実です。

目に見えるものだけを信じて目に見えないものを信じないというのはおかしいと思います。

イエスを信じキリスト教徒になった人は、聖書を読み聖書に道徳的に良いことが書いてあるからキリスト信者になったのではないのです。

聖霊の臨在を体験して、イエスの復活が事実だと信じたからキリスト信者になったのです。

イエスの復活は処女降誕と違ってキリスト教信仰の生命線です。

イエスの復活がなければキリスト教はありえません。イエスの復活がなければイエスの御霊、聖霊の降りもないのですからあたり前です。

なお、ルカの福音書の処女降誕は二世紀になって、必要により付け加えられたという説もありますが、それはキリストの生涯があまりにも偉大であったので、その主人公がいつどこでどのように生まれたかは重大な関心ごとであったからではないでしょうか。

著者はイエスの処女降誕の話を加えるに際し、何もないところから物語を作ったというより、イエス誕生の際にマリアの身に何らかの不思議な霊的現象があったので、そのことをマリアから聞いて物語を描いたとするのが自然ではないでしょうか。

何れにしてもイエスに出会った(地上でのまたは復活したイエスに)人たちにとっては、イエスが神の子とか処女から聖霊によって生まれたことなどは、信じても少しも不思議ではない事態であったのです。

事実イエス死後二十年ほどですでにイエスは神として崇められているのです。

イエスがこの地上に生きておられた時代を生きていた人、生前のイエスの証人となる人々がまだ多く生きていたのにです。

なお、これらの物語が神話だとする説もありますが、神話が生まれるには数百年以上の時間を要するものと聞いています。数十年では神話は生まれません。

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