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2017年9月27日 (水)

続・誘惑を受ける(マタイ4章)

誘惑を受ける(1)(2)と重複するところがあると思いますが、自分が納得するためにもう少し書きます。
マタイの福音書4章です。

●1節.さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。

最初に書いておきますが、1節で、イエスは「霊に導かれて」とあり、マルコでは「“霊”はイエスを荒野に送り出した。」とありますから、この試練はイエスが自分から望んだことではなく、父なる神に追いやられて試練を受けたと考えられます。

ということは、人生の試練は神からくるもので、また、人性としてのイエスが試練を受けたと言うことになります。

イエスはヨハネから水のバプテスマを受け、それから、荒れ野に入り四十日間サタンの試みを受けられました。

マタイの福音書のこの個所は、サタンの誘惑の内容を三つ具体的に挙げていて、マルコの福音書と違います。

マルコはイエスがサタンから誘惑を受けられたことだけを伝えています。

なお、イエスはサタンの三つの誘惑を、聖書[旧約]の言葉を用いて退けておられますが、その聖書の言葉はすべて申命記から引用されています。

●2節.そして、四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。

四十日間の断食ですが、すごいですね。普通わたしたちは二日も食事をしないと耐え難い空腹感を覚えます。

しかし、聞くところによると、断食は数日続けると、食事をしないことが自然になって、あまり空腹を感じなくなるそうです。

四十日となると、飢餓状態になり回復不能になるほど衰弱するそうです。

四十日と言う断食期間にあまりとらわれる必要はないと思うのですが、イエスはこの人間の生存ぎりぎりのところまで断食されたと言うことでしょう。

●3節.すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」、

ここは最初の誘惑です。誘惑する者が来て、飢餓状態にあるイエスに言いました。

神の子ならば、その力をもってこれらの石をパンに変えて、自分の命を救ったらどうかという誘惑です。

これは、神の力を自分のために用いて飢餓から逃れるように誘惑しているのですね。

ということは、神の霊に導かれて試練を受けているのですから神を信頼すべきなのに、神が石をパンに変えて食べよとも言われていないのに自分でそうすれば不信仰になります。

悪魔の目的は不信仰への誘惑ですね。この誘惑に対して、イエスは申命記の言葉を用いて答えられます。

●4節.イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある。」

末尾の「言葉で生きる」の生きるとは「活きる」の意味だそうです。

神の言葉こそ、人間の命を本当に活かす。これこそが本当の命のパン「イエスは命のパン」(ヨハネの福音書6章22節から59節)ということでしょう。

肉体を支えるパンは、そのことを証しするために神が与えてくださる「しるし」ということで、その本当のパンである神の言葉、つまり、聖霊を与えて下さる神を信頼しなさい、ということでしょう。イエスの答えの真意はそこにあると考えます。

イエスの答え「と書いてある。」の書いてある個所は,旧約聖書申命記の第8章3節「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口からでるすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」です。

疑念を持たずに、一気に答えられています。疑念を持てば、悪魔の誘惑に負けたことになりますからね。

イエスは、自分の命を救うことよりも、神の言葉に従うことを優先させられました。

もしここでイエスが神の御心に反し、石をパンに変えて自分を飢餓から救っていたら、神を信頼していないことになり、悪魔の思うつぼです。自分の力に頼ることは、神をおろそかにして、自分を奢っていることになります。

この試練は、おそらくこれから歩く苦難の僕の道、つまり、全人類の罪を贖うための御業である十字架に至る苦難の道を試されているのでしょう。

サタンは飢餓状態と言う人間の弱みにつけ込んで誘惑したのです。このように人間の弱みに付け込んで、誘惑して罪を犯させるのが悪魔のやり方です。

もちろん、サタンがイエスを誘惑することは、神はとっくにご存知ですから、神はサタンを利用してイエスに試練を与えたということになります。

おそらく、試練を受けているイエスは、先に書いたように人性としてのイエスですから(もし、この時のイエスが神と一体であるならば、神がサタンの誘惑を受けて試練に遭うことになります。)、この時のイエスは神と一体ではなかったと思うのです。

だから、イエスは神の言葉を語れなかったから「書いてある」(ということは、旧約聖書は神の言葉だということです。)といわれたのでしょう。

また、イエスはここで神を父といわないで「神」といっています。

細かいところもきちっと正確に書かれていますね。だから、聖書は信用できるのです。

●5節.次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、

●6節.言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、/あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える』/と書いてある。」

この個所の悪魔の言葉、「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために・・天使たちは手であなたを支える』と書いてある」ですが、今度は悪魔がイエスに「書いてある」と言いました。

もちろん、書いてあるというのは旧約聖書に書いてあるということですが、悪魔も神の言葉、聖書の言葉を用いてイエスを誘惑するのですね。

ここの悪魔がイエスを聖なる都の神殿に連れて行ったというのは、他の個所と同じで、イエスの心の中での誘惑と戦いを、マタイはこのように表現したのでしょう。

悪魔がイエスに、もしお前が神の子なら神が救ってくれる、やってみたらどうかとイエスの心の中でささやいたのでしょうね。

悪魔がイエスに神を試させてようと、聖書の言葉に反することをさせようとしている。

●7節.イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。

「あなたの神である主を試してはならない」は、申命記6章16節の「あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してはならない。」からきているのでしょう。

マサにいたときというのは、出エジプト記17章1節から7節のことだと思います。「マサ」は試しという意味だそうです。

のどの渇いた民がモーセと争いましたが、そのときにモーセは、「なぜわたしと争うのか、なぜ、主を試すのか」といいましたが、結局モーセは主なる神に助けを求めました。

主の指示通り、モーセはナイル川を打った杖で岩を打つと岩から水が出ましたので民に与えました。

それで、その地はマサ(試し)とメリバ(争い)と名付けたということです。

さて、イエスは神は何でもできる方なのは分かっているが、自分を助けてくれるかどうかを試さなかったのです。

神はそういうイエスを信頼されたから彼を復活させ、人類の歴史で最大の奇跡の出来事が起こったと言えます。

しかしよく考えれば、神を試みるというのは、被造物である人間が創造主を試すのですから傲慢のほか何もありません。

被造物が神と関わる時は常に信仰、(信頼)によるしかないと思うのです。

信仰は己を無にして神への信頼だけを根拠として行動することですからね。

●8節.更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、

●9節.「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。

●10節.すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」

10節の「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ・・と書いてある」ですが、これも悪魔がイエスを心の中で非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて」言ったのでしょう。「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と。

イエスもわたしたちと同じで、この世の価値観で誘惑され神に従う決意を試されたのでしょうね。

地上のすべての民と富を思うままに支配する権力を与えようというのです。

どちらも地上の権力者ならば、のどから手が出るほど欲しいものです。

ということは、富と権力の誘惑は、悪魔が人間を罪に陥れるために用いるのに有効な手段だと言うことでしょう。
逆にいえば、人間は富と権力には弱いと言うことです。

もし、イエスが悪魔を拝んだら、つまり悪魔の支配下(神に敵対する勢力)になったらその権力と富を与えようと言うのです。

悪魔は、これらの富と権力が、ことごとく自分の支配下にあって、神の支配は届かない。だから、悪魔を拝まなければこの世の富と権力を手にすることができないと言っているのでしょうか。

それは錯覚で、この世の富も権力も地上の世界も悪魔のものではなく神のものです。

だから、悪魔がしていることもすべて神が許されているからできるのです。

ですから、この世は悪魔が支配していると思ったら悪魔の罠にかかったということになります。

醜い権力者の姿とか、この世が不法や不条理が幅を利かせているのは、神に許されたうえで悪魔が支配している姿だと思います。

この世のもろもろの富も権力も神の支配の下にあります。たとえこの世が悪くても、不法や不条理が幅を利かせていても、この世を支配されているのは神です。

神は、富と権力を求めることを禁止されていないと思いますがそれに溺れてはいけない、つまりそれに支配されてはいけないと言っておられると思います。

だからここで大事なことは、同じ富や権力でもこれらを得るのに二つの方法があるということでしょうか。

神から与えられる場合と悪魔から与えられる場合です。 

お金は生きていく上で大事です。しかし、悪魔から与えられれば拝金主義、偶像礼拝になります。

確かに金を拝めば(金に執着すれば)金は儲かるかもしれないが、見返りに神を見失うことになります。悪魔の誘惑に従うか神の言葉に従うか、わたしたちはいつも試されていると思うのです。

信仰を持つと言うのは、そういう戦いの中で生きると言うことなのでしょう。

●11節.そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。

イエスは荒れ野で神の試みに合われて神の国の宣教へと向かわれました。

この試みまでが宣教へ旅立たれるイエスの助走期間だと思います。

イエスはガリラヤのナザレから出てきて、洗礼者ヨハネのバプテスマ運動に身を投じられて(そのように思います。)、ユダヤの荒れ野での宣教に赴く前の準備として、父なる神に導かれて、断食の中での御霊との交わりの中で、悪魔の誘惑の試みにあわれ、これから始まる神の国の宣教へ、そして、受難の僕の道を歩む決意が本物であるか試されたのでしょう。

その試みに勝利することによりイエスの決意が確認されたのだと思います。

それは、御自分の意志ではなくて「御霊に導かれ」(1節)て試されたのでした。だから、悪魔の誘惑は父なる神が許された上でのことであったと言えます。

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