イエス誕生その後(1)(マタイ2章)
(占星術の学者たちが訪れる)
マタイの福音書第2章1節から12節
●1節.イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、
●2節.言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」
イエスの誕生物語はマタイの福音書とルカの福音書のみにあります。マルコの福音書とヨハネの福音書にはありません。
マタイの福音書にはルカの福音書にあるようなイエスの誕生場面、例えば天使によるヨハネとイエスの誕生の予告とかの記載がありません。
マタイの福音書はイエス誕生の場面を語ることなく、ただちに誕生にともなう出来事を語り始めます。それも、ルカのようにマリアではなくヨセフを中心にです。
マタイの福音書に沿ってみていきますと、イエスの系図のあとすぐに「占星術の学者たちが訪れる」物語が始まります。
この物語が歴史的事実かどうかは別にして、福音書記者が語ろうとしている意味を考えてみたいと思います。
その切り出しが上記2章1節の「イエスがヘロデ王の時代に・・・」となります。
イエス誕生の時と場所は、東方の学者たちの来訪の時期を示す文の中で触れられるにすぎないが、「イエスがヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった」ことは、ルカとも共通していますので、事実であり重要な伝承であったからでしょう。
出来事があった時代と時を明記していますので歴史的事実であると考えてもおかしくはないと思います。
これは聖書の特徴なのですね。他の宗教の経典などは、そのように歴史的な出来事として書かれていません。
そういう意味で、キリスト教は歴史の中から生まれた宗教だと言えます。
ただ、イエスの誕生物語は、イエス誕生の際の出来事について事実あったことを記録して報告する伝記とか歴史ではありませんので、出来事の一つ一つが実際に起こった出来事かを問うよりも、―そのとおりのことが起こったのかもしれませんがー神の子の世界への誕生を物語ることで福音を告げ知らせようとしていると思いますから、わたしたちもそのようなものとして読みたいと思います。
つまり、事実かどうかを詮索するより信仰によって読むのです。
ヘロデ王は、紀元前四年に没していますから、イエスの誕生はそれ以前になります。
ルカの福音書でイエスの誕生の日時がわかる箇所は、1節の「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。」と2節の「これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。」です。
ルカが伝える皇帝アウグストゥスの勅令による「キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録」は議論もあるということですが紀元前七年であったとされています。
したがって、イエスの誕生は紀元前七年から四年の間であるというだけで、説はいろいろありますが確かな日時はわからないと言うことです。
現在キリスト教界で広くキリストの誕生を祝う祝日とされているクリスマスは、四世紀頃から異教の冬至祭に対抗して制定された祝日であって、実際の誕生の日付とは関係はないと言うことです。
だから、クリスマスはイエスの降誕を記念する祭日であり、イエス・キリストの誕生日と考えられているわけでは無いということです。
イエスがガリラヤのナザレの人で、出生地がユダヤのベツレヘムであることは確かなようです。
ガリラヤはユダヤから見れば辺境の地です。そのような辺境の地ガリラヤのナザレの人イエスがなぜユダヤのベツレヘムで生まれたのでしょうか。
ルカによると、マリアの夫ヨセフの出身地(本籍地)がベツレヘムであったので、そこで住民登録をするために現住地のナザレからベツレヘムへ旅をし、旅先で生まれたのだと説明しています。
それでも、腑に落ちないのは身重の妻を伴ってベツレヘムまで旅をする必要性はどこにあるのでしょうか。
ヨセフが単身でベツレヘムに行けばすむ問題ではなかったのでしょうか。身重のマリアを一人ナザレにおいてはおけない何かの理由があったのでしょう。
それに対してマタイは、ヨセフ一家がヘロデの迫害によってユダヤを去ってエジプトに逃れ、ヘロデが亡くなって帰国したとき、彼の子がユダヤを治めていると聞いてユダヤを避けガリラヤへ移住したと説明しています(2章)。
マタイの記事は、イエスの家族はもともとベツレヘムの住人であったという前提で語られているように見受けられます(2章)。
ルカとは違うようです。どちらが本当かはわかりません。
このように見ると、イエスの家族はもともとガリラヤの住人ではなく、移住者であったと思われます。
どちらにしても、両福音書ともイエスがベツレヘムで生まれたことが重要視されているようです。それは、イエスがダビデの家系に属することを強調するためであったと考えられます。
ベツレヘムはダビデが生まれた地で、ダビデはそこで油注がれて王位についた町ですから「ダビデの町」と言われていたからです。
ルカの福音書第2章11節「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」
同2章4節「ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。」
2節にある東方の賢人たちが星の動きに導かれてメシアを拝むためにはるばるエルサレムに来た物語ですが、わたしは占星術は文明と共に旧い人類の知恵ではないかと思うのです。
星の動きと地上の歴史的事件との間に何らかの関係があるのかもしれない。この宇宙と地上に存在しているもの、起ここと全てに何一つとして無駄はない、すべての出来事は関連していて、意味のないものはないと思えて仕方ないのです。
つまり、天地万物は何らかの法則のもとにお互いに影響をおよぼしながら一体として動いているのではないかということです。
これは荒唐無稽な考えでしょうか。何かで読みましたが、わたしにもよくわからないのですが、最先端の科学者からも、心と物質からなる宇宙の出来事いっさいに(したがって天上と地上の出来事の間にも)、因果関係ではなく「意味のある関係」(シンクロニシティ)を認めようという思想が現れてきているということです(F・D・ピート)。
シンクロニシティというのは、解説では「意味のある偶然と訳されており、こころと物質の宇宙全体は、すぐれた交響曲の運動のようにたえず変化してゆく意味をもち、意味はつねにそれ自身に対して、創造的に働き返している。」ということです。
占星術にしても、F・D・ピートのシンクロニシティ理論を持ってすれば、大きな意味を持ってくると思うのです。古代から人類に受け継がれている知恵です。
まるっきり、無意味なものであれば今日まで消えてしまわずに受け継がれてきたのはなぜでしょうか。この世はわからないことばかりです。
(ヘロデ王とエルサレムの人々の不安)
マタイの福音書第2章
●3節.これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。
●4節.王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。
●5節.彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。
●6節.『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」
●7節.そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。
●8節.そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。
3節のヘロデの不安は、自分の他に聖書で預言されている「ユダヤ人の王」が出現することを恐れての不安であったと思います。
また、「エルサレムの人々も皆」となっていますが、この人たちの不安はヘロデの不安とは違って未知なることが起こるかもしれないという期待のこもった不安でしょうか。
ヘロデ王はユダヤ教の知者たちを集めてメシア誕生の場所を尋ねます(4節)。彼らは預言書(ミカ書五・一)を引用して、メシアはベツレヘムに生まれることになっていると答えます(5節・6節)。
8節で、ヘロデ王は東方の賢人たちを呼び寄せ、星の現れた時期を確かめ、「わたしも行って拝もう」という敬虔の装いで殺意を隠し、「その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ」と依頼します(7節・8節)。
それは、そこへ行ってメシアを拝むためではなく、メシアを殺すためであったのでしょう。
なお、ヘロデは国中にスパイ網を張り巡らせていたということです。
それほど、猜疑心の強い人であったのでしょう。いや、独裁者は猜疑心が強いものです。
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