誘惑を受ける(2)(ルカ4章)
「悪魔の誘惑とイエス(1)」からの続きです。
ルカの福音書第4章4節からです。
●4節.イエスは、「『人はパンだけで生きる者ではない。』と書いてある」(申命記8の3)とお答えになった。」
●5節.悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。
●6節.そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。
●7節.だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」
●8節.イエスはお答えになった。「『あなたの神である主を拝み、ただ主に使えよ』」(申命記5の7)と書いてある。」
●9節.そこで、悪魔はイエスをエルサレムにつれて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った、「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。
●10節.というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたたちのために天使に命じて、あなたをしっかり守らせる。』
●11節.また、『あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える。』」と、(詩編91の11~12)
●12節.イエスは、「あなたの神である主を試してはならない』(申命記6の16)といわれている」とお答えになった。
4節で、イエスは悪魔に対して何の迷いもなく「人はパンだけで生きるのではない」ときっぱりお答えになります。
マタイの福音書4章4節には、「神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」と付け加えています。
これは、この宇宙は神が言葉を発せられたことによりなったからです。
神が「光りあれ」と言われたから光があるのです。神の思いが言葉をもって物質化したのです。創造、つまり、無から有を生むとはそういうことだと思っています。
「産めよ、増えよ、・・」(創世記第1章28節)と言われたからわたしたちがあるのです。神の言葉は命ですから、神の言葉につながっていて初めて本当の意味でわたしたちは生きるのです。(参照聖句ヨハネの福音書第6章33節)
もちろん、このパンは小麦から作ったわたしたちが日常食べているパンではなく、聖霊のことを言います。
神の言葉、つまりイエスの言葉を信じることによって天から降ってきた聖霊を食べる。
つまり、イエスの言葉を信じればその人に聖霊は内住されます。そうして、始めて人は本当の意味で神と共に生きる者となると言うことだと思います。
パンを食べてこの肉の命を守るよりも、神への信頼を捨てずに、聖霊を食べて永遠の命を得る方が第一だということでしょう。聖霊が本当のパンです。
ルカの福音書第4章5節は第二の誘惑です。
サタンはイエスを高いところに引き上げ「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」と言いました。
もちろん、この繁栄はサタンの価値観による繁栄ですから、愛のなく、弱肉強食で、傲慢で、自己中心が前面に出た争いが支配する繁栄です。(参照聖句ガラテヤ書第5章20節・21節)
これに対し、イエスは答えられた。「『あなたの神である主を拝み、ただ主に使えよ』」と書いてある。」(ルカの福音書第4章8節)と言って躊躇なく退けられました。
次に第三の誘惑です。ルカの福音書第4章9節から12節です。
悪魔はイエスを神殿の屋根の端に立たせて言った、「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。
というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたたちのために天使に命じて、あなたをしっかり守らせる。』また、『あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える。』」と、イエスは、「あなたの神である主を試してはならない』といわれている」と躊躇なくお答えになった。
神は信頼(信仰)すべきもので、試みるものではないのです。神を試みるようなことをしないように、神はわたしたちに求めておられるのです。
悪魔はイエスに、この世のもろもろの権力と栄華を与えようと約束します。悪魔が約束するのですから、この世の支配者は既に悪魔だということになります。
たしかに、イエスがこの世に来られて神の支配のための準備が始まったのですが、この段階では、イエスの十字架による罪の贖いも、復活の御業も完成していなかったので、このような質問を悪魔がしたのだと思います。
しかし、よく考えると、悪魔を含めてこの世のすべてを創造されたのは神ですから、神の許しがなければ被造物である悪魔も何もできないはずです。
だから本当はこの世は神が支配されているといえます。悪魔は泳がされているだけと言えます。悪魔は自分に支配権があると勘違いしているのです。
人間の世界でも、本当は弱い人間なのに、強がって威張りたがる人は沢山います。
ここの悪魔の目的は、この世的な価値でイエスを誘惑して、それを得たければ悪魔を拝みこれに仕えることだと誘います。
その誘惑に対し、『あなたの神である主を拝み、ただ主に使えよ』」と書いてある。」といって、イエスはこの悪魔の試みを退けられたのです。
もしもここで、ひょっとしたらこの世の富も悪魔のもので、神の支配できない領域に属すると思いこんだら、悪魔の罠にかかったことになるのです。
事実、イエスの御霊は、神の御計画により、十字架の贖いと復活の御業で、この世の力、悪魔の力に打ち勝ちました。
イエスを十字架で殺すようにもっていたのは悪魔ですから、イエスが十字架で殺されたということは、悪魔がイエスを殺したという証拠になります。
したがって、裁きの日には悪魔は申し開きができず地獄に落とされるのです。この裁きは、決定事項です。
こうして聖句を読んでみると、同じ権威や権力、同じ富や栄誉でもこれらを得るのに、神あるいは悪魔二者から与えられる方法があるのですね。
名誉でも富でも、サタンを拝んで獲得するか、神に従って与えられるか、このどちらかということでしょう。
このことを、わたしたちの日常に置き換えますと、お金は大事ですが、お金の亡者になれば拝金主義になり、正反対にある神、人生にとって一番大切な神を見失うことになります。
お金は人間を誘惑するのに有効な方法です。たいがいの人はお金の誘惑に負けます。
悪魔はお金と言う人間にとってもっとも弱い部分、魅力あるものを用いて人間を誘惑するのですね。
神に従うと言うことは、神の言葉を信頼し、従うということです。神の言葉とは、それは聖書のみ言葉であり、人の良心だと思います。
わたしたちが神を選択した時にその人の潜在意識に神の意思である聖霊が働くのだと思います。
甘い言葉をもって悪魔の誘惑が来たその時、その人を押しとどめようとする神の言葉が働いてくださる。でもこれに従うかどうかは、人間の自由な意志と選択に委ねられています。
わたしたちはいつも神を選ぶかサタンを選ぶかの二者択一を迫られているのだと思います。
それは、クリスチャンは聖霊の導きに従うかどうかであり、クリスチャンでない方は神から人間に与えられた自然の法則である良心に従うかどうかだと思うのです。
しかし、クリスチャンでない方も、自然と聖霊が求めることを行っている場合もありますので、こうして見ると人間にはもともと霊の結ぶ実を行うように造られていると言えないでしょうか。(参考聖句、ローマ書第2章14節.ガラテヤ書第5章22節・23)
わたしたちは良心に従って行動をできたときとか、路上で困っている人を助けて感謝された時などは何となく気持ちの良いものです。それは神の御心に沿った行動だからでしょう。
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