あなたがたも生きることになる
ヨハネの福音書14章19節を読みます。
●19節.しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。
このイエスの言葉は、十字架につけられる前の晩に弟子たちに語られた言葉です。
「生きるようになる」ですから未来形です。
この言葉の前に語られた「わたしが生きているので」という条件のもとでの答えです。
イエスが「わたしが生きるので」と言われた命は、期限付きの死に定められた命とは別種の命、死を超えて生きる命、復活の命、永遠の命のことなのです。
その命が現実にあることは、神がイエスを死者の中から復活させられたことによって、実証されました。
その命をもって、「あなたがたも生きることになる。」と言われたのですから、キリストにある者に、このご自分が生きておられる命を与えることができるということになります。
つまり、神は今キリストにある者は、神への背きの罪を赦し、聖霊、すなわちイエスを死者の中から復活させた霊を注いで、復活されたイエスが生きておられる命に生きるようにしてくださるのです。
さて、わたしたち生まれながらの人間は、創世記によると、土の塵で造られましたが、やがて、土に帰るように定められています。
神はその体に命の息(霊)を吹き入れて生かしておられますが、それは期限付きです。
その命の息を永遠に生かしていくのには常に神様と交流し、メンテナンスが必要なのです。
今のように命の根源である神から離反している状態が続くと、その命の息が尽きる時がやがて来るのです。
現代の生命科学で、人間の体の設計図であるDNAには成長から死に至る全過程が書きこまれていると言われていますが、これはそのことを言っているのではないでしょうか。
人間は誕生の瞬間から死に向かって歩んでいるのです。だれもこの定めを変えることはできません。今わたしたちが生きている命は死に定められた命です。
そのやがて衰えて滅びゆく命が、復活して永遠に生きる命に代える神のご計画が、神の御霊、聖霊によって、この地上で生きる内から進行しているのです。
土の塵(地上の物質)で造られた身体をもつ人間を「生きる者」とするのは、神が吹き入れられる「命の息」です。聖書では、息は霊の象徴です。
神からの霊によって生きる者となった人間は、子が親を慕い求めるように、命の根源である神を慕い求めるようにできるはずです。
自分の命の根源である神との交わりがなければ生きていけないことは、無意識のうちに知っているはずです。
だから、神を慕い求める人間の営みの表れとして、宗教が生まれ、人間は生命への畏敬を覚えるのです。
キリストにある者は、神が天地万物の存在の根源であり、生命の源泉であることを知っています。だから、キリストにある者は、神を畏れ敬い、祈り、賛美し、交わりを求めて生きるのです。
いのちは神からいただいた賜物です。それを知る者の生き方は、自分の命を大切にするのと同じように、隣人の命を大切にして生きる生き方になるのです。
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