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2017年8月16日 (水)

わたしたちは待っています

フィリピの信徒への手紙3章20節を読みます。

●20節.しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。 

キリストの民の本籍は天国にあります。この地上の歴史にあるのではないのです。来世という未来にあるのです。 

そしてその天国とは、どこか遠い空のかなたという空間とか場所を示すのではなく、終わりの日、つまり、この地上から始まっている人類救済の歴史の終わり、その歴史が完成する終末という時間の流れの終わりに到来するのです。

終末とは、創造者の目的、新しい人間、新しい天地が完成した世界、時間のない世界のことだと思います。

キリストの民は、そういう終末に属する民なのです。

だから、この地上の歴史は寄留者としての旅なのです。

キリストの民は、その天国である故郷を待望して、「そこから主イエス・キリス トが救い主として(迎えに)来られるのを、わたしたちは待っている」と言っているのです。

つまり、この世の終末に至る歴史を先取りしているのですね。

もちろん、この終末を先取りしてそのことに確信を持てるのは、聖霊の働きによるのです。聖霊は、生まれながらの人間の本性、つまり、自己中心的であらゆる欲望が支配するこの世界の中で終末を先取りしてわたしたちに生きる力を実現する力といえます。

こうしてキリストの民は、現実の歴史と戦いながら、終末から来た民として、終末を先取りしながら歴史の中を歩むのです。

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