外なる人と内なる人
コリントの信徒への手紙第二4章16節を読みます。
●16節、だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。
内なる人とか外なる人という言葉に興味を持ったので、調べてみました。
もちろん、この聖句の言葉には、前提として、誰でもキリストにあって生きるならば、があるのでしょう。
「わたしたちは落胆しません」ですが、それは「衰えていく」にかかっているのでしょう。
なぜなら、「日々新たにされ」ていくからということでしょう。
この衰えというのは、老いのことを言っているのでしょう。人生において老いることは辛いことです。それは体力が衰え、心の働きも弱くなり、社会からも遠ざかり、生き甲斐や希望も痩せ細っていく辛い時期です。
もちろん、老いると病を患うことも増えます。その病が老いを加速させることもあります。
わたしたちがこの肉体の身体の中で生きているこの肉の命は日々衰えていきます。
そして、やがて、死を待つだけという時期が必ず来るのです。このように思うと寂しくなります。
この聖句は、そのように老いていく自分を「外なる人」と表現しているのでしょう。
ところがキリストにある者には、その様な自分は本来の自分の姿ではない、と見る別の自分がいる、すなわち「内なる人」がいるのです。
必ず老いていく自分と違う別の自分、この身体の中にあって必ず老いて死に至る肉の命とは違う別の霊の命が始まっているのです。
それが、キリストにあって神から賜っている新しい命、永遠の命に生きる自分の姿ということでしょう。
その「内なる人」である新しい命は、御霊の働きによって、神の恵みの力を得て日々新たにされ、力が増し加わっていくのです。
そのことをキリストにある者は、日々自覚して生きているのです。
ですから、この「外なる人」と「内なる人」は二人の別人ではなく、一人の「わたし」に内在するのです。
そして、やがて外なる人の命は内なる人の命のもとに一つにされて完成する時がやってくるのです。外なる人は、その時を待ち望むのです。それがキリストのある民の希望です。
キリストにある者の老年の日々は、日々衰えていく「外なる人」とは別の新しい命である「内なる人」が日々新たにされるのを自覚しながら、復活の希望を輝かせて生きる日々といえるでしょう。
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