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2017年7月26日 (水)

インマヌエル

マタイの福音書1章23節を読みます。
●23節.「その名はインマヌエルと呼ばれる」

この聖句は、イエスの誕生にあたって、イザヤの預言がイエスにおいて成就したことを告知する福音の言葉です。

そのイザヤの預言とは、「それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。」(イザヤ書7章14節)です。

福音書ではこの後、インマヌエルの意味として「この名は『神は我々と共におられる』という意味である」と続けています。

イエスがこの世界に出現された事実の意義を明らかにしているのです。

その意義とは、イエスにおいて、神が人間と共におられるという事実です。

そして、「共におられる」ですから、その事実はイエスの身に起こっただけでなく、イエスと共に歩むものにも起こる事実でもあるのです。

その聖句は、復活したイエスの言葉「わたしは世の終わりまで、いつまでもあなたがたと共にいる」(マタイの福音書28章20節)です。

イエス・キリストがイエスの言葉を信じ心に留める者と共にいてくださるという約束です。

同時に、キリストにおいて神がキリストの民と共にいてくださるのです。

もちろん、イエスが肉体のまま生きていて共にいてくださるのではなく、イエスが天に上られた後、神の御霊、聖霊がイエスに代わりこの地上に降られ、霊となったイエスが、福音を信じる者と共にいてくださるということです。

マタイの福音書は、イエスの十字架以降四十年以上経てから書かれているのですが、著者マタイは十字架以降四十年にわたり御霊と共に歩む現実を身をもって体験した上で書いているということです。

なにも、マタイの願望でも作り話でもないのです。

イエスの御霊、聖霊の働きは、今もキリストの民が現実に体験していることであり、そのことが証されています。

イエス・キリストこそ神が人間と共にいます現実であり、そのキリストによって人間はだれでも神と共にいる者となるということです。

イエスは、世を去る前の夜、これからは聖霊によっていつまでも彼らと共にいる同伴者となるということを弟子たちに詳しく語られました。

それが、ヨハネの福音書14章の「イエスは父に至る道」「聖霊を与える約束」です。

キリストにある者は、「インマヌエル」、すなわち、神が共にいてくださる現実に生き、その現実を証言するのです。

このように聖書の神は、どこか空遠くにおられるのではなく、イエスの言葉を信じ、心に留めている者と共におられるのです。そして、その者に語りかけるのです。

キリストの民は、その共にいます神に祈り、語り掛けるのです。

キリストの民と神のこのような対話は、民の願望ではなく、イエスが「アッパよ」と叫ばれたように、神との親しい対話であり、交わりでもあるのです。

人間の現実は悲惨ですが、キリストの民はやがて「涙をことごとくぬぐい取ってくださる」ことを知っています。それがこの世を生きる希望でもあるわけです。

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