父よ、/御名が崇められますように
ルカの福音書11章2節を読みます。
●2節.「そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、/御名が崇められますように。御国が来ますように。』。
これは、弟子たちがイエスに「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」(11章1節)とお願いしたときの、イエスのお答えです。
イエスは父なる神に親しみを込めて「アッバ!」と親しく呼びかけて祈ります。
神を父として、父と共に生きておられ、「わたしと父は一つである」とまで言い表しておられます。
それで、自分に従う弟子たちにも、「父よ」と言って祈れ、と教えられるのです。
でもね、わたしは思うのです。わたしもそのように祈るのですが、親しみというのは自分の感情でなく、当然霊的にということでしょうが、その様な神との親しい交わりの世界になかなか入っていけないのです。
キリストの民として、まだまだ未熟だということでしょうね。
イエスは父なる神と言葉を共有して一体となられて、父である神の力によってあらゆる病人を癒やし、悪霊を追い出されました。
また、イエスは共にいます父に教えられて神の言葉を語られました。それに対してわたしたち人間は、病に苦しみ、罪に苦しみ、弱さの中で懐疑と暗闇の中をさまよっています。
とても、イエスのように「父よ!」という祈りの世界、父である神と共に生きる現実に入っていけるものではないのも現実だと思い、自分を慰めています。
本来は、イエスのようであらねばならないのですが、その距離は途方も遠くに感じられます。それだけ、わたしは、御霊が自由に働ける土壌ではないということでしょうか。
その距離を生めるのは、自分の努力とか能力ではどうにもならないことはよく分かります。イエスの姿はわたしたち人間の本来あるべき姿であることもよく分かるのです。
人間の聖の現実を見れば、わたしの、いや、人間の生の悲惨、愚か、弱さ、曖昧、無意味などを聖書の言葉で言えば、「堕落」の中にいるのも分かります。
神から離反して、自分勝手に生きているからゆえの堕落です。
人間は神によって造られた者でありながら、神に背を向けることにより、被造物として、その本来の在り場所から落ちたのです。
それが原罪です。この背きの罪を癒し、人間を本来の神との交わり、神と共に生きる生へと回復する神の働きが「救い」というのでしょうね。
神は救い主キリストであるイエスを世界に送ることによって、この救いの働きをなしてくださいました。そして、その救いの告知が福音ということですね。
具体的には、神は御子イエスをもって、わたしたちの離反の罪を背負い、十字架上に血を流し、わたしたちの贖いを成し遂げてくださったのです。
それがゆえに、わたしたちは、十字架され復活されたキリスト・イエスによって子とする神の霊を与えられ、このイエスの祈りを共にすることができるのです(ローマ8章15節)。
わたしたちと神との途方もない距離は、「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。」(ローマ8章15節)とあるように、こうして神の霊、聖霊によって埋められるのです。
それは恵みによるのですから、ひたすらその時を祈り待つしかないのでしょう。
そういうことで、わたしは教会でよく問いかけられる、信じていますか、という言葉に違和感を覚えるのです。
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