わたしをおいて神はいない
イザヤ書44章6節を読みます。
●6節.イスラエルの王である主/イスラエルを贖う万軍の主は、こう言われる。わたしは初めであり、終わりである。わたしをおいて神はない。
イスラエルを贖う神とありますが、神が人類を罪から救済する為に選ばれたイスラエルの役目は、2000年前にイエスを十字架で殺してしまった時に終わりました。
その役目はいまキリストを信じる者に引き継がれています。
したがって、神はキリスト者に向かって「わたしは初めであり、終わりである。わたしをおいて神はない。」と言われているのだと言い換えることができます。
何事にも初めがあれば終わりがあります。天地万物を創造された神は、その歴史の終わりにはどういう働きをされるのでしょうか。
神は創造の神ですから、何を創造されるのでしょうか。
イザヤ書45章8節にこのような言葉があります。
「天よ、露を滴らせよ。雲よ、正義を注げ。地が開いて、救いが実を結ぶように。恵みの御業が共に芽生えるように。わたしは主、それを創造する。」
だからその神は救いを創造されるのです。その救いとは、この地上の歴史のなかで2000年前にナザレのイエスによって始まった終わりの日の救いの働きを指します。
しかし、救いは完了したが未完成です。その働き手は、実働部隊は聖霊です。
神は十字架で殺されたイエスを復活させて、キリストとして立てられました。
そのキリストにおける神の人類救済の働きは、イエスの復活で終わらないで、キリストに属する民に聖霊が注がれ、聖霊の働きによって世界にキリストの福音が告知された後に、やがて再臨されるキリストによって完成するのです。
キリストは、終わりの日に創造される(現在進行形)新しい人間を代表する方として「終わりのアダム」と呼ばれています。
これを具体的に書くと、キリストを信じる者に注がれる聖霊によってその者を新しくキリストの姿へと変容させ、キリストが再臨されるときにその変容が完成するのです。
従って今のこの時は、イエスのとき(十字架と復活)とやがて再臨される時の間に位置するわけです。
つまり、救いと変容と完成に至る歴史が神の創造の働きになるのだと思います。
クリスチャンは、その事実を証言するために選ばれて、キリストにおける神の救いの働きを世界に告知する役目を仰せつかっていると思うのです。
何も優れているとか努力したからではないのです。クルスチャンはとるに足らない存在の中から先鋒として救いの働きのために選ばれただけなのです。
キリストを信じる者が受ける栄光とはこのことを指すのだと思います。
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