アガペーの愛
コリントの信徒への手紙一13章7節を読みます。
●7節.すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
アガペーの愛は人間が本性的に持っていない愛です。神の御霊、聖霊によってもたらされる愛です。
パウロはコリントの集会に宛てた第一の手紙の一二章から一四章で、神が与えて下さる霊的な賜物として、「知恵の言葉、知識の言葉、病気をいやす力、奇跡を行う力、預言する力、霊を見分ける力、異言を語る力、異言を解釈する力」などキリストにある者一人一人に与えられる聖霊の働きを列挙し、これらの霊の働きが現れるのは、全体の益になるためですとします。(12章4節から11節)
全体の益のためだとするところが重要なのです。聖霊の賜物を与えられた個人その人にではないことに注目すべきでしょう。
得てして人間は、与えられた賜物を誇りたくなるものです。与えられたのはあなたが優秀ではなく、あくまで恵みにより与えられたのです。
そして、それらの霊の賜物(いわゆるカリスマ)をいかに神の御心に従って用いるべきかを語っています。
パウロは、その中で「わたしはあなたがたに最高の道を教えましょう。」(12章31節)と言って、神からいただく御霊の賜物でも最高のものである愛について語ってます。
13章3節では「全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。」と結論付けます。
そして、先に挙げた霊の賜物が、すなわち、「山をも動かすほどの完全な信仰をもっていようとも、愛がなければ無に等しい」(13章2節)とします。
その上で、4節から愛の働きを語り出します。
この愛の言葉は動詞だということですから、動詞を使って愛の働きを表しているということは、愛は働きそのものだということです。愛は語るものではないのです。
列挙された愛の働きは、「忍耐強い、情け深い、ねたまない、自慢せず、高ぶらない、礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない、不義を喜ばず、真実を喜び、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」とします。
これら愛の姿は、人間の本性である自己中心性からは生まれないものです。
それでは、ちょっとわかりにくいのですが、すべてを忍びの「すべて」は、何を指すのでしょうか。
それは、どのような相手にも、またどのような状況でもという意味だと思います。
すなわち、どのような状況であろうと、どのような相手であろうと「愛は決して滅びない」のです。
なお、参考ですが、ギリシア語で愛の種類には、男女の愛としてのエロスと、友愛としてのフィリアがあり、そして、ここで用いられている「アガペー」があるそうです。
このアガペーの愛をイエスは、敵を愛する見返りを求めない無条件の愛として示されたのです。
アガペーの愛は、自己中心的な人間には本来備わっていないもので、神を知って初めてなしえるものと思います。
パウロも聖霊によって新しい命に生きる者の愛の姿として語っています(ローマ書12章)。
敵を愛する愛(パウロは、迫害する者のために祈れとか、悪に悪を返さず、善をもって悪に勝てと表現しています。)は、自己に不利益になることですから、生まれながらの人間の本性である自己中心性に反することですから実現することは不可能です。
神の霊、聖霊に従って初めて人間の内に実現するのです。神を知らなければ、なしえないことなのです。
ルカの福音書6章27節から28節でイエスは、見返りを求めない愛、すなわち、「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。」と弟子たちに語り掛けておられます。
何度も書きますが、自分に不利益をもたらする者を愛するのは、人間の本性に反し、不可能なことです。
それでは、このイエスの言葉は、不可能なことを弟子たちに求めておられるのでしょうか。
それは、イエスの次の言葉を読めばわかります。
「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」(ルカの福音書6章36節)
父とは神のことですから、父なる神のように憐れみ深い者となりなさいとなります。
つまり、父の恩恵の場、慈愛の下に生きなさい。そうすれば、その様になれます、と言うことでしょう。
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