エクレシア
コロサイ書1章18節を読みます。
●18節.「また、御子はその体である教会の頭です。御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです。」
「御子はその体である教会の頭」ですから、キリスト者の集まりである教会、つまりエクレシアは御子キリストの体だと言っているのです。
この「体」は人体をたとえにして、復活された霊なるキリストという見えない霊がこの地上に形をとって現われた姿を指しているのでしょう。
キリストの民には聖霊が内住されていますから、そのキリスト者の集まりである教会、つまりエクレシアにも聖霊が住まわれ働かれています。
キリストの民は、聖霊によってこのエクレシアという一つの体の中に組み込まれているのです。
この体の中にキリストは聖霊として住んでおられるのです。
つまり、神の御霊、聖霊がおられる所が神殿であるとすれば、キリストの民個人、そのキリストの民の集まりであるエクレシアにも神の御霊聖霊がおられますから、キリストの民個人も、その集まりであるエクエシアも神殿と言えるのです。
ですから、仏教や神道のように、神殿や寺院を作って、そこに仏様とか神様がおられるとしてお参りする必要はないのです。
そして、エクレシアを構成するキリストの民一人ひとりは、そのエクレシアの肢体でもあるわけです。
「御子はその体である教会の頭」とありますから、このキリストの体であるエクレシアのその頭はキリストご自身です。
人体の各部は頭からの指令でそれぞれの動作と働きをしているように、わたしたちエクレシアの肢体である一人ひとりは頭であるキリストの指示に従い、キリストからの様々な聖霊の賜物によって、キリストのわざを行うのです。
そして、神の御霊、聖霊の共同体であるエクレシアは、賜物である信仰と愛と希望を指標として、運営されるのです。
キリストを頭とする共同体は、キリストの福音を世界に告知することを使命とする共同体です。その福音の中身はキリスト信仰です。
パウロは、エクレシアの構成員に、「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。」(コリントの信徒への手紙一12章27節)と言って、集会を人体にたとえ、各々の肢体が他の肢体を必要とするように、お互いに高ぶることなく助け合って、そこに聖霊が住みたもう神の宮であるエクレシアを建て上げるようにと言っています。
その様な集合体が実現すれば、まさに世の光となるでしょう。
なお、マタイの福音書18章20節に「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」 とイエスは言われていますから、それがエクレシアの最小単位なのでしょう。
「わたしの名によって集まる」ですから、その場はどこでもよいのです。極端に言えば、キリスト教以外の宗教の集まりの中であっても良いのです。そう、ユダヤ教の中にキリスト信仰が生まれたようにです。
わたしは聖書でキリストの民の集会を「教会」と訳されているところに違和感を覚えます。
なぜならば、教会と言えば中世のキリスト教暗黒時代の制度的教会を思いだすからです。
聖書で言っている教会は、あくまでエクレシアのことで、キリストの民の集まりでありますから、教会の指導者が権力を振るって信徒を支配する組織ではないのです。キリストの民が中心の組織です。
紀元一世紀から二世紀になり、教会が制度的教会になり、ローマ帝国という国家権力と結びつくようになると、御霊の働きが衰えていったと聞きます。
なお、エクレシアはキリストを受け入れた人が集まる個々の共同体(家の集会)ということですが、この聖句では「教会」と訳されています。
キリストの民が二人以上集まればエクレシア、一つの家の集会でもエクレシアですが、パウロ以降の世代になると、このような個々の家の集会が一緒に対処しなければならない問題が増えたのか、キリストにある民の一体性が強く意識され、エクレシアという語がキリストの民全体を指して、単数形で用いられるようになったということです。
それは今でも同じで、世界全体のキリストの民がキリストにおいて一致すれば、全世界のキリストの民は一つのエクレシアと言えます。
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