人は生きる者となった
創世記2章7節を読みます。
●7節.主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。
聖書は「初めに、神は天と地を創造された」という宣言で始まります。
天地万物の存在は神の働きの結果だという宣言です。天地万物は自然発生的に生まれたのではないのです。創造主である神がおられてご計画を持って創造されたのです。
そして、この7節で、その創造の働きの最後に人間の創造が語られています。
人間の身体は土の塵で形造られましたが、それが生きる者となるために神は「命の息」を鼻から吹き込まれたのです。
こうして、命は神から与えられたものであることを語っています。
聖書は、人間だけでなく天地に満ちる生命はすべて神から出たものだと言っています。
神こそすべての生命の根源と言えます。
生命は神秘です。生命の仕組みは分かってもいまだに人間には造れません。
わたしたちは生きてはいるがどうして生きているのかは誰も分からないのです。
わたしたちが造られたものであれば、それは永遠に分からないでしょう。
テレビが人間の思いを理解できないように、被造物が創造主の思いを理解できないのは当たり前です。
だから、わたしたちが想像もつかない生命の神秘を知るとき畏敬を覚えます。
同時にそれは創造主、すなわち、神への畏敬でもあります。
命への畏敬は神への畏敬、したがって、どのような命であれ尊び慈しむ者は神を畏れ敬っていることになります。逆に軽んじ滅ぼす者は、神に反逆していることになります。
この「命の息」とは、神の霊です。何度も言いますが、人間が神に造られた者であるならば、人間は子が親を慕うように命の根源である神を慕い求めなければおれないはずです。
その営みが宗教と言えます。だから、どのような理由であれ、命を滅ぼす宗教は宗教ではないと思います。
クリスチャンの中にはお医者さんが多いと思うのですが、それは生命の神秘にふれ、畏敬を覚え、神を求めるようになられたからではないでしょうか。
キリストにある者は、神が天地万物の創造主であり、生命の根源であることを知っています。
キリストにあってこの神を畏れ敬う者の生き方は、自分の命を大切にするのと同じように、他者の命も大切にする生き方を選びます。神を信じるならば、そうであるはずなのです。
これが人間の倫理とか道徳の土台となる根本原理だと思うのですがいかがでしょうか。
人間の体の設計図であるDNAには成長から死に至る全過程が書きこまれているそうです。そう、わたしたちは生まれた時にすでに死ぬことが定められているのです。
でも神の御子イエスは、わたしの言葉を信じ心に留めるならば死んでも生きると言われたのです(ヨハネによる福音書11章 25節)。
死に定められた命とは別の命、復活の命、永遠の命に生きると言われたのです。
事実、神はイエスを(十字架死で)死者の中から復活させて、そのことを実証されたのです。
イエスは復活してキリストとして立てられ、今わたしたちが生きている命とは別の種類の命である復活の命を生きておられます。
そして、イエスはご自分の言葉を信じる者にその復活の命を与え、新しい人間に創造する働きをされています。その働き手が、キリストの御霊、聖霊だということでしょう。
こうしてイエス・キリストは「命を与える霊」となられました。
パウロはそのキリストを、最初に神から「命の息」を吹き入れられて人間となったアダムと対比して、「終わりのアダム」と呼んでいます。
アダムが神の背いて生きる古い人間を代表しているように、この終わりのアダムは、終わりの時に神が創造される新しい人間を代表しているのです。
神はすべての人間が、キリストにあって復活の命、永遠の命に生きることを望んでおられるのでしょう。
なお、この「永遠の命」というのは、時間的な永遠でなく(来世は時間がない世界ですから)神と共に生きることができる命という意味に受け取りたいと思います。
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