どこにいるのか
創世記3章9節を読みます。
●9節.主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか。」
神を知る者が、おまえは「どこにいるのか」と問われますと、ドキとします。
自分が問われている存在であることを改めて自覚するからです。神の問いにわたしは応えているのだろうか、と自問自答しますと、不安がこみ上げてきます。
ふと、人生を振り返った時、先の見えないわたしたちは、不安とか無意味とか空虚さに直面し、そこからの出口を見いだせずに堂々巡りで苦しむことはよくあることです。
そのようなことを考えてみ仕方がないと言うことで、日常のことに目を向けて気持ちを紛らせるのですが、真剣に考えこんでしまうこともあります。
標題の神の問いかけを聴いて、改めて「わたしはどこにいるのか」と自分に問いかけ、「あなたはどなたですか」と問いかけるようになり、そのあなたのことを知りたくて聖書をむさぼるように読み始める。
心の空白を埋めるために・・・。
その時から、この問いへの答えを求める探求の旅が始まります。教会に通い、熱心に聖書を読み、先人の解説書を読み、あらゆる周辺の書物を読み二十年が過ぎ去りました。
それでも、答えは得られません。
でも、この探求の旅をやめられないし、やめようとも思わない。それは、イエスの次の言葉を信じているからです。
イエスは言われる。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。求めよ、そうすれば与えられる。」(マタイの福音書7章7節)
標題の聖句の「アダム」とは人間です。人間は自分自身で存在しているのではなく、万物を存在させる神の意志と働きによって存在させられているのです。
いや、万物を存在させる意志と働き事態が神とも言えます。
神は、人間アダムが神の命令に背いたことから始まって、今日まで子孫である人間はその性質を受け継いでいます。
この万物の存在の根源である神は、自分に背を向けている人間に向かって、「おまえはどこにいるのか」と問いかけておられます。
人間がこの問いかけを聴いて、自分の存在の根源である神との関わりに目覚めるところから、人間が本来の人間の姿を取り戻す旅が始まります。
そのことを教え、導くのが聖書であり、神の御霊、聖霊なのです。
キリスト教とはそういう宗教だと思います。
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