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2017年6月22日 (木)

日々新たにされて

コリントの信徒への手紙二4章16節を読みます。

●16節.だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。

わたしはキリストを信じてもう二十年を超えますが、はたしてわたしの「内なる人」は日々新たにされているのでしょうか。

この聖句は特別の人のことを指していて、わたしたちのような一応クリスチャンなどは該当しないのではないかと思う時があります。

でもこの聖句は、この手紙を書いたパウロのような特別な人だけに言える言葉ではないと言うことです。

「だから、わたしたちは落胆しません。」ということですから、キリストにあって新しい命をいただいている者であれば、誰にでもこのようなことが起こるということでしょう。

でもその新しい命を自分が戴いているかどうかはどのようにして知ることができるのでしょうか。

その前に、「外なる人」は衰えていく、ですが、これは生まれ持ったこの体と心のことを言っているのでしょうが、それらは衰えて、やがて死んでいく、つまり、老いていくことを言っているのだと思います。

人生において老いるということは、身体の衰えとともに心の働きも衰えます。

と同時に、社会から疎外され、誰からも期待されず、何もすることがなくなり、生き甲斐や希望が消えていく過程です。そして、後は死を待つのみとなります。

しかし、頭書の聖句はそのように衰えるのは「外なる人」であって「内なる人」ではないと教えます。

キリストにある者は、この身体の中にあって必ず老いて死に至る生命とは違う別の命がその人の内で始まっていることを知っている自分がいると言っているのです。

その人が知っているか知らないかはその人の内なる体験ですから外の者には分からないのですが、神の御霊、聖霊がその人に内住し、働かれれば分かるはずだと言うことでしょう。

ですから、この「外なる人」と「内なる人」というのは、二人の別人を指すのではなく一人の人間に内にそういう事態が起こるこを指しているのですが、キリストにある者は、一人の自分の中に「外なる人」と「内なる人」 の二つの姿、命を持っているということになります。

やがて滅びゆく外なる人の命が、やがて内なる人の命に飲み込まれて、外なる人と内なる人が一つになって新しい人間として完成する時が来るのです。それが復活ということでしょう。

キリストにある者の老年は、その人の「外なる人」は日々衰えるが、「内なる人」はその中で日々新たにされると同時にその人に復活の希望をもたらせるのです。

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