自分の目の中の丸太
マタイの福音書7章3節を読みます。
●3節。あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。
この聖句は、いかにわれわれが、人の欠点はよく見えるのに自分の欠点は見えないという自己中心的な姿を示しています。
人は本性的に自己本位であり、自分にとって価値があるか否かをすべての価値の基準とします。
そして、自分が一切の判断の基準として、自分と違うものは排除しょうとします。
これは個人間あるいは国家間においても、民族同士においても同じことが言えます。
人間の本性が自己本位であるから、国も民族も、世界がそういう基準で成り立っているのです。だから人類は古代から争いが絶えないのでしょう。
このままでは世界に平和は決して訪れません。
それに対して、信仰の世界は、神本位です。神の言葉がすべての価値の基準なのです。
その世界に生きる者は、自分の願望や判断を捨て、神が望まれるというか、神のみ心に沿うように生きようとします。
ただし、他者を排除し、己の信じるところを唯一とする宗教原理主義者は、神本位のようであって自己本位だと思うのです。
神中心に生きようとすると、自己本位性を捨てなければなりませんが、わたしたちが、現世を生きる上において、それはとても難しいことと言えます。
言い換えれば、見えるものを信じて生きるか、見えないものを信じて生きるかの違いです。人には厳しく、自分には甘いとも言えます。
なにしろ、自己本位と神本位ですから価値観が正反対ですからね。
信仰者も同じで、この世を生きる限り自己本位性を捨てきれません。なぜならば、人間は自己中心が本性だからです。
わたしたちは生まれてからこの方、自己本位で生きてきて、その生き方が当たり前ですから、その様な生き方がおかしいと気が付かないで、それにこの目に見える世界がすべてとして生きていますから、物事の真理が、物事の真意が分からないのです。
信仰を持たないものならばなおさらであると思います。
イエスの時代のユダヤ教パリサイ派の人々は、神本位で生きていることを標榜していましたが、神本位と標榜しながら自己本位的な生き方となり、そこに宗教の倒錯が生じました。
それは、彼らは、神の意志の啓示としての律法を自分が守り行うこと、つまり、自分に都合よく律法を解釈して、それを価値の基準として他者を測り、自分のように守っていない人たちを裁き、排除していました。
まさしく、神が啓示された律法であるのに、自己を守るあめの自己本位の律法になっていたのです。
イエスはその倒錯を暴露されたのです。彼らだけでなく人間はすべて、「兄弟の目にあるおが屑は見える」、すなわち、わたしたちは自分を基準として他者の些細な罪を裁いて排除しがちですが、「自分の目の中の丸太に気づかない」のです。
わたしたちは、人の悪いところがよく見えるのに、自分の悪いところには気がつかないものです。
わたしたちは、このような自己本位な本性を克服して、神の限りない恩恵と慈愛が自分の存在の根拠となり、他者との関わりの基準になる神本位の場で生きることが求められています。
なぜならば、わたしたちは目的があって神に造られたのですから、造られた目的に沿って生きることが当然求められます。
といっても、人間の自己本位はこの世を生きる限り捨てられません。そこから起こる問題のすべてを神はご存じのはずです。
わたしたちはそういう自己中心で成り立つ世の中で如何に生きるかが求められているのでしょう。
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