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2017年6月18日 (日)

罪と死との法則からの解放

ローマの信徒への手紙8章2節を読みます。
●2節.キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。 
この箇所の聖書(新共同訳)の副題は、「霊による命」です。

ここでパウロは、自分がひいては人間が罪の支配の下でいかに苦しんでいるかを書いています。

パウロは7章24節で「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」と嘆いています。

続いて25節で、「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。」と言っています。

ということは、救いとは罪からの解放だとパウロは言っているのです。

わたしたち人間を神から離れさせ、悪に導こうとする力からの解放だということでしょう。

わたしたち人間を悪に導こうとする力は、悪魔の人間に対する働きかけを指しているのですが、このように悪魔を人間のように形のある静的なものではなく、動的な力として認識しているのです。

その力をパウロは次のように表現しています。

15節「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。」

18節「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。」

19節「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。」

これらの聖句は何ら解説の必要はないと思います。だれでも、自分の心に聞いてみればわかることです。

殆どの宗教は病気や経済的困窮などの人生苦からの解放を売り物にします。

そのような状態にあるのをパウロは、「罪と死の法則」に支配されている結果だとします。

罪と死の支配下にある状態からの人間の解放を救いとし、その救いをイエス・キリストによって与えてくださった神に感謝しているのです。

ですから、キリストの救いは、病気や経済的困窮などの人生苦ではなく、罪に誘う力からの解放であり救いなのです。

もちろん、ここで罪というのは道徳や法律に違反する諸行為のことではなく、それは人間を神から引き離そうとする霊的な力に支配されていることを言っています。

その力を言い換えれば、悪魔の働きです。殺人とか暴力など刑法にかかわる罪は、その神から離反している状態から派生した罪です。

わたしたち人間はそのような悪の力の支配下に陥っている。それは、エデンの園でアダムが悪魔の誘惑に負けて神から離反したことに始まります。

命は神様からの授かりものです。いつもメンテナンスを受けていなければ死んでしまいます。

人間は命の源である神に背いたので、その命に与ることができなくなっているのです。

だからそのままでは死ぬ(肉体が滅んでこの世から去ることではなく、その人の魂も死ぬ意味です。)しかないのです。

神に離反した状態のまま生きることを、生まれながらの本性に従って生きると言いますが、そういう命には罪と死が支配していますから、死ぬしかないのです。

それが「罪と死の法則」と言うことです。

それに対して、「キリストにある」、つまり、イエスの言葉を信じて心に留めて生きる者には神の御霊、聖霊が宿りますから、その人の内では「罪と死の法則」とはべつの法則、つまり、神様と関係が正常な形に回復した状態、「命の御霊の法則」が働くようになるのです。

すなわち、わたしたちが自分の罪(神からの離反)のために死なれた復活者したキリストに自己を委ねて、そのキリストに合わせられて生きるとき、このキリストを通して働く神の御霊、聖霊の働きによって、罪と死の支配から解放されるのです。

その聖霊は、わたしたちの努力とか能力などは一切関係なく、わたしたちを罪と死の支配から解放して永遠の命を与えてくださるので、「いのちの御霊」と呼んでいます。

最後に、悪魔は救いに与れないが人間は救いに与れるのは、悪魔は自分の意志で神のようになりたいと思って神に離反したのですから、いわば確信犯です。

人間は何も分からないまま悪魔に騙されて神に離反したので、まだ救われる余地があるのです。

罪が何かも分からないまま罪を犯しているのが人間で、罪が何かを分かっていながら罪を犯しているのが悪魔なのです。だから救いようがないのです。

なお、聖書では、罪が何かが分かっていないのに、分かっているつもりでいるのも罪だと言っています。

きっとそれは、分かったつもりでいるのですから、その様な状態では、正しい罪の意識を受け入れる余地がないので、罪を悔い改める機会もないということではないでしょうか。

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