アッバ、父よ
ローマの信徒への手紙8章15節を読みます。
●15節.あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。
新しい時代を告げる神の言葉である福音は、その言葉を信じる者を救いに至らせる神の力と言えます。
それは、福音が告知するイスラエルのナザレのイエス、つまり、キリストにおいて神の御霊が働くからです。
この御霊の最初の働きは、律法のしがらみからの解放、罪と死の支配からの解放でした。
その結果、わたしたちは御霊において自由を得ました。
標題の聖句の中の「奴隷の霊」とは、わたしたちを罪の支配から解放し、新しい命に生きるように導く神の御霊は、人間に罪の処罰に対する恐れを与え、従うように求めるような人間を奴隷にする霊ではなく、父なる神の愛に包まれ、御霊によって喜びをもって自然と父と一緒に暮らしたくなる自由な霊といえます。
簡単に言えば、現在でもよく見られる宗教が人を奴隷にするということです。宗教にはそういう面があることが語られているのでしょう。
キリストの福音は、キリストの御霊は宗教ではなく真理なのです。真理は宗教のように人を奴隷にするのではなく、人を解放し、自由にするのです。
イエスの告げる福音は人を自由な神の子とするのです。キリスト教の教えは真理ですから、真理は人を奴隷にするのではなく解放するのです。
中世に過ちを犯したキリスト教は、宗教という人間が作った制度が過ちを犯したのです。
キリストにおいて働く神の御霊によって神の子とされた者は、その御霊によって神に向かって「アッバ、父よ」と祈るのです。
その祈りは、強制されるのではなく祈りたくていられなくなるから祈るのです。
これはきめられた言葉ではなく、御霊の働きにより思わず心の底から湧きあがってくる喜びの中で叫びたくなる神に対する呼びかけです。
この「アッバ!」というのは、イエスが使われていたアラム語で「お父様」という意味だそうです。
このように御霊に満たされて自ずから神に呼びかけたくなる時に出る言葉が、まさしく、その人が神の子とされていることを証言していると言えます。
それでは、神の子は御霊によって自由を得ますが、その自由とはどのような自由でしょうか。
欲することは、何をしてもよいという自由でしょうか。それは違うのですね。
御霊によって生きるのならば、御霊に沿って生きるのですから、その意味で自由だと言う意味でしょう。その自由は自由奔放の自由でなく、御霊の示すところを生きる上での自由です。
神がご計画をもって神に造られた人間ですから、造られ目的に沿って生きるのが自由な生き方と言えます。
その様は、神の子は父の御心に従わなくてはおれなくなるから従うので、決して強制されて生きるのではないのです。造られた目的に沿って生きるから自由なのです。
たとえば、良心の葛藤と言うのが誰にでもありますが、それは不自由なものですが、その葛藤と言うのがなくなるのです。
なぜなら、良心は神がわたしたちに与えられたものですから、その良心に沿って生きるのが神の御心に従うことになるからです。
御霊はわたしたちをそのように生きることができるように作り替えてくださるのです。
キリスト教は、そういう意味で「神の聖霊による信仰」といえます。
宗教的な祭儀とか、特定の教義を信奉することとか、道徳的な生活をすることで成りたっている信仰ではないのです。
神の霊の働きによって内に形成された信仰、神の御霊が生み出してくださる新しい命に生きる信仰ということでしょう。
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