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2017年6月10日 (土)

すべての人のために

コリントの信徒への手紙第二5章14節を読みます。
●14節.・・キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。 

福音とは、世界中の人々にキリストが十字架につけられた意味を告知することです。

パウロは聖霊に満たされてこの言葉を語ったのでしょう。

これは使徒パウロが、キリストの救いを体験し、キリストの愛に迫られている者たちを代表して、「わたしたちはこう確信します」と言って語り出した言葉です。

キリストに出会うとこのようなことが言えるのですね。キリストを知らない人は信じられないことです。

聖霊体験も、単なる生理的な現象ではと思われがちですが、その体験が、聖霊の働きと見るかどうかですから、神の存在を認めるか否かによるのでしょうね。

客観的には証明できない、あくまで個人的な体験ですからね。体験した人にしか分からないのです。しかし、説明のつかない不思議な現象があるのは事実です。

イエスは約2000年前にこの地上に生きていた人物です。そのイエスと言う人物が福音を告知し、それがために十字架で殺されました。

ところが、三日後に復活して、すべての人々の救済者として立てられたのです。

そのキリストの死は「すべての人のため」の死なのです。だから、すべての人に代わって死なれたのです。

その死は、人間は本来(霊的に)永遠に生きる存在であったのに、神に背くと言う罪のために死ぬものとなったので、人間を再び永遠の存在とし、神のものにするための贖いの死なのです。

ですから、キリストの死はわたしのために、わたしに代わっての死なのです。キリストの死においてわたしが死んだことになります。

この「すべての人」は、わたしの他のすべての人ではなく、わたしも含めたすべての人だからです。

キリストの死を信仰の目で見れば、わたしを含む過去・現在・未来のすべての人のためにキリストが死なれた以上、わたしも含めてすべての人も死んだのです。

キリストの福音を受け入れると、キリストの御霊が、聖霊の働きとなって現実に、「わたしはあなたのために死んだ」という言葉で、わたしたちに罪の自覚を迫るのです。

罪を自覚すれば、今まで自己中心に生きていた自分の存在は無意味になり、今度は自分のために死なれたキリストのために生きる別の自分が生まれるのです。

これはキリスト教の奥義です。これが信仰を持った時によく言われる「回心」ということでしょう。

キリストの死の意味を自覚する時、わたしたちの自我は打ち砕かれて、復活者キリストにおいて賜る無条件の恩恵にただひれ伏さざるを得なくなる。

なぜならば、わたしたちの故郷は神にあるからです。
このような事態をパウロは、「キリストにあって」という表現しているのでしょう。

キリストの福音はすべての人を、この神の無条件の恩恵の場に入るように招いているのですね。

最後に、どうすればそういうことが体験できるのかと言いますと、神は言葉によりご自分の思いを伝えようとされていますから、それはまず神の存在を信じ、聖書(特に新約聖書)を読むとか、その言葉を聴き、心に留めるしかないと思うのです。

聖書を読んだり聴いたりしていれば聖霊が働かれて導いて下さる。人間の側の何か、つまり、祭儀とか修行とか道徳とか知識とか行いは必要ないのです。

なにしろ、聖書の一節が人の人生を変えることもあるのです。そのような実例は、この2000年間に生まれたキリスト者の歴史の中には無数にあるのです。

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