わたしに立ち帰れ
イザヤ書 44章22節を読みます。
●22節.「わたしはあなたの背きを雲のように、罪を霧のように吹き払った。わたしに立ち帰れ、わたしはあなたを贖った」。
「わたしに立ち帰れ、」は、神は万物を創造されましたが、その人間は神に背を向けて。神との交わりを失っているという現実があるからそのように言われたのです。
万物を言葉によって創造された神が、最後に 「御自分にかたどって」、すなわち御自分と同じく言葉をもつ存在として人間を創造されました。
人間は、神の似姿に造られ、すなわち人格的存在として言葉によって神との交わりをもつために存在していると言えます。
これが人間を造られた神様の最大の目的だと思います。神様はそういう存在が欲しかったのでしょう。
ところが、人間は神に背を向け、神との交わりを失いました。
人間アダムがサタンの唆しによって神から離反してから、今も神は御霊の働きで「おまえはどこにいるのか」とわたしたちに働きかけておられます。
ですから、その働きに殆どの人は人生のどこかで気がつくのですが、無視する人もおれば、目先の忙しさに追われてそのうちに忘れてしまう人もいる。中には自覚して求道に入る人もいます。
わたしの友達に、「神様はいると思いますか」と問いかけると、いるかもしれないしいないかもしれないが、やはり、いるのでは、という答えが返ってきますがそこで終わりです。
殆どの人が神様を知らないし、知ろうとしないので、「みんなが渡れば怖くない」方を選ぶのですね。人間は、目に見えないものは避けようとするものです。
お金儲けは誰もが注目することで、負けたくないから(目に見えることだから)真剣ですが、己の存在の根源を知ろうとする人は(目に見えないことだから)目先の損得に関係がないので、関心がないのです。
小数派にはくみしないものです。これが日本の社会の構図です。
人間は造られた存在です。であるならば造られた存在が造った存在から離れたら、造られた意味もわからず、メンテナンスを受けられないので死んでしまいます。ましてや、その中で悪魔がわたしたちの目を神から離そうとしていればなおさらです。
車でも住居でもメンテナンスしなければ使い物にならないようになるのと同じです。
神は御子イエスをこの世に送り、「そこはおまえのいる場所ではない。わたしのもとに帰ってきなさい」と呼びかけておられます。
今わたしがいる場所は、つまり、創造主である神から離反している場所は本来のわたしたちがいる場所ではないのです。
この消息をイエスはあの「放蕩息子」のたとえで語られましたが、その中で父の家から出て貧窮に陥った息子に飢えを満たすものを与える者は誰もなかったと語っておられます。
人生はまじめに考えると、むなしいものです。そのむなしさを満たすためには創造主である神に立ち帰る他ないのではないでしょうか。
なぜむなしいかと言いますと、わたしたちは自分がどこからきてどこに行くか、何のために生きているのかわかっていないからです。
わたしを存在させ、わたしと共にいることを求める神に背き離反していることをキリスト教では原罪と言っています。
神はその罪をキリストの十字架によって無条件に赦した上で、「わたしに立ち帰れ」と呼びかけておられるのです。キリストのいう福音はその神の呼びかけです。
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