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2017年6月14日 (水)

信仰は聞くことにより

ローマの信徒への手紙10章17節を読みます。
●17節.実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。

イエスの言葉を神の言葉だと信じ、その言葉が語る来世を信じ、永遠の命を信じ、死を恐れない、死に打ち勝つ人生を歩む信仰者を見れば、どうすればそのような信仰を持てるのかと未信者の人はきっと強い関心をもたれるでしょう。

なぜならば、誰でもが人生の究極の関心事である「死を恐れない、死に打ち勝つ人生を歩む」ということに惹かれるからだと思うのです。

それは宗教によっては至ることのできない境地だとおもいます。

その様なことを言えば、キリスト教も宗教ではないかと言われそうですが、確かにキリスト教は宗教です。

しかし、イエスの言葉は、イエスは神の子だからその言葉は真理なのです。真理が絶対ですから一つです。二つとありません。

宗教は相対的です。なぜならば、宗教は人間が生み出し、この世を生きる人間のためにあるからです。しかし、キリストの言葉である真理は一つです。

パウロは言っています。

「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストの信仰によって義とされる」(ガラテヤの信徒への手紙 2章16節)。

ここでパウロが律法と言っているのはユダヤ教のことですが、律法は行いを求める戒めですから、そのほかの宗教全てのことに通じます。

なぜなら、ほとんどの宗教は全て救われるには行いを求める(だから、この聖句は「律法の実行」となっているのです。)からです。

ユダヤ教は律法ですが、宗教は大概、祭儀・修業・献金・教えの行いなどにより救われるとしています。

仏教も神道も行いを持って信仰を量りますが、イエスは信じることのみ、いやパウロは信仰も神の賜物だと言っていますから、人間には心を開いてキリストの福音を受け入れることのみ求めておられるのです。

したがって、このパウロの言葉は、宗教の行いとイエス・キリストの信仰を対比していると思うからです。

このように、キリスト教を含めどのような宗教でも、その宗教の教義を信奉し、その祭儀にあずかり、教えに従って生活しても、それで神に義とされて神との関わりに入り、神の救いにあずかることはできないと思うのです。

それができるのはただ「イエス・キリストの信仰」 だけだと思います。

何度も言いますが、イエスは神の子でイエスの言葉は神の言葉だからその言葉を信じることによってのみ神への離反と言う罪からすくわれるのです。

神への罪ですから罪を許すことができるのも神様お一人なのです。

誰も、何を持っても代わりになることはできません。ただ神様の無条件の恩恵にすがるしかほかに方法がないのです。

宗教的行為を含め人間の側のいかなる立派な行為も、神は義とされないのです。

そうでしょう。もし、行いで義とされるならば、救いの主権は神さにあるのではなく、人間側にあることになるからです。

パウロのいうイエス・キリスト信仰とは、ただひたすら「イエス・キリストの言葉」、すなわちキリスト(救い)を告知する福音を聴いて、その言葉を信じ、わが身を委ねる事なのです。

こうして初めて、永遠の命を与える神の霊、聖霊がその者に内住し、その者を新しい人間に造り替えるために働かれるのです。

パウロはこう言っています、「あなたがたに一つだけ確かめたい。あなたがたが“霊”を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか。」(ガラテヤの信徒への手紙3章2節)。

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