希望
ローマの信徒への手紙8章24節を読みます。
●24節.わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。
ここで言う希望とは、いわゆる救いのことなのですが、仏教の浄土宗では「南無阿弥陀仏」ととなえれば救われると言います。それはあの世において救われるという意味でしょう。
ところが、キリスト教の救いは現実で、この世に生きているときから始まるのです。
それは、救われると現実にこの世において希望をもって生きることができるからです。
今がいかに悲惨な状況であろうとも、希望を持てるように変えられるのです。
そして、その希望は標題にあるように、見えないものに対する希望なのです。
キリストを信じる者は、約束により賜っている聖霊によって、希望は現実となり証されるのです。
キリストの民はイエスの望まれた聖霊と同じ聖霊を賜り、神の子とされ、キリストの民はイエスに臨まれた同じ神を、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。
その希望は復活です。
聖霊はイエスの御霊とも言い、2000年前にイエスが復活されたようにわたしたちもその同じ聖霊の働きによってやがてイエスと同じように復活するのです。
ですからイエスはわたしたちの初穂と言えます。
したがってイエスの復活は、救いの約束(復活の約束)の保証と言えます。
しかし、生身の肉体をもってこの世を生きる限りわたしたちはこの朽ちるべきからだと弱い人間性からの離脱はかなわないので、その中で呻き、この内なる呻き中から生まれる切望が、「希望」ということでしょう。
イエスは御身を持って人類の罪を贖われましたが、「贖い」というのは本来(身代金を払って)捕虜や奴隷の状況から解放されることですから、キリストの贖いは、わたしたちの体が滅びへの隷属から解放されて、朽ちるべき体から朽ちない体に、卑しい体から栄光の体に、つまり生まれ持った肉の体から霊の体に変えられることといえます。
聖書はそのように教えるのですが、それでは、体の贖いとか死者の復活とはどのような事態でしょうか、標題にあるように、それは、わたしたちには見えないものなのです。
だから、「わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」(ローマの信徒への手紙8章25節)。
最後に一言、神様がおられるから希望が、造られ生かされているから希望があるのです。
人間が進化論で言うように勝者生存、適者生存によって自然発生的に生まれたものならば、来世はないかも知れない。
人生がこの世だけのものならば、創造者の意志、つまり摂理もないのですから、やった者の勝ち、やりたい放題の世界が許されます。それこそこの世は地獄です。
見事なまでに調和のとれたこのわたしたちが住む自然界を見て、人生がこの世で終わることなどとても信じられないのです。
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